谷山村(読み)たにやまむら

日本歴史地名大系 「谷山村」の解説

谷山村
たにやまむら

[現在地名]篠山市谷山

岩崎いわざき村の東に位置し、南にまきヶ峰連山がある。中世よりみえ、応永二三年(一四一六)四月四日の現奈良県天理てんり山田やまだ町春日神社蔵薬師堂鰐口銘に「大沢庄裕山村松田宮御宝前」と記されており、当地と推定される松田宮に懸けていたものであった。慶長一三年(一六〇八)の多紀郡桑田津之国帳に谷山村とみえ、高三三三石余。


谷山村
ややまむら

[現在地名]品川区西五反田にしごたんだ二―三丁目・大崎おおさき四丁目・小山こやま四丁目など

北と東はおよそ上大崎村・下大崎村、西と南は桐ヶ谷きりがや村に囲まれる小村。主村地は目黒川右岸沿いにあるが一部は左岸に及び、桐ヶ谷村の東、居木橋いるぎばし村との間と小山村内に飛地がある。ヤツヤマともよんだ(江戸名所図会)。田園簿に村名がみえ、高は畑方のみで五五石余、高木喜左衛門知行。旗本高木喜左衛門正長は元和六年(一六二〇)荏原えばら郡に知行を得、その子正照の代まで続いたが、元禄元年(一六八八)落度を咎められて知行召上げとなった(寛政重修諸家譜)。以後は幕府領幕末に至った(「風土記稿」・旧高旧領取調帳など)


谷山村
たにやまむら

[現在地名]津幡町浅谷あさんたに

津幡川支流の浅谷あさのたに川上流、浅野谷あさのたに村と俵原たらわら(現金沢市)の中間に位置。元和四年(一六一八)榎尾えのきお(現同上)から分村したという(「温故集録」加越能文庫)。「加賀志徴」は正保(一六四四―四八)以後の村かとする。正保郷帳谷内村(高五七六石余、田二八町四反余・畑一〇町)がみえるが、当村にあたるかどうかは不詳。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高二一石、免四ツ五歩、小物成は山役一二五匁・野役二匁(三箇国高物成帳)


谷山村
ややまむら

[現在地名]天竜市谷山

相津そうづ村の北、天竜川中流域左岸に位置し、光明こうみよう山の西方にあたる。「遠江国風土記伝」は佐久さく村から分村したと記す。永仁二年(一二九四)九月二九日の関東下知状(尊経閣古文書纂)に「遠江国西口山(西山香カ)佐久八重山・小松崎地頭職」とみえ、幕府は天野顕政に地頭職などを安堵している。「八重山」は当地に比定される。江戸時代の領主の変遷は横川よこかわ村に同じ。正保郷帳では永高五貫三三三文。元禄郷帳では高三三石余。嘉永三年(一八五〇)の家数二〇・人数九二、馬二。


谷山村
たにやまむら

[現在地名]古賀市谷山

犬鳴いぬなき山の北に続く西にし(六四四・六メートル)西麓に位置し、西は川原かわばる村。小早川時代の指出前之帳では谷山村の田一八町三反余(分米二一九石余)・畠九町六反余(分大豆四二石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五三五石余(慶長石高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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