谷内村(読み)やちむら

日本歴史地名大系 「谷内村」の解説

谷内村
やちむら

[現在地名]輪島市深見町ふかみまち

惣領そうりよう村の東、日本海に面し、鉢伏はちぶせ山北麓山地に立地。中世大屋おおや深見保が成立。元和年間(一六一五―二四)には庶子深見しよしふかみ村、寛永期(一六二四―四四)には深見谷ふかみだに村、承応期(一六五二―五五)には深見谷内村とも書かれた(深見町区有文書・亀井文書)。承応二年の深見谷内村六ヵ所免付帳(亀井文書)によると打越うちこし一乗いちじよう大谷内おおやち納見おざみ鷲岳わしたけ坂井さかいの六垣内があった。のち一乗から分れたとみられる赤崎あかさきを加え七垣内となった。正保郷帳では谷内村とみえ、高二九二石余、田方一〇町八反余・畑方八町六反余、新田高四一石余、田方二町七反余。承応三年の村御印の高三〇九石余、免五ツ三歩(能登奥両郡収納帳)

谷内村
たにないむら

[現在地名]鹿角市八幡平はちまんたい 谷内

鹿角盆地の南部東側、北流する熊沢くまさわ川中流域右岸の八森はちもり(九〇四・六メートル)西麓に位置し、さらに諸集落が川上に散在する。寛政(一七八九―一八〇一)頃の「邦内郷村志」に村名が出る。

近世初期の「鹿角郡由来記」に「谷内村 谷内三郎領知 本名成田 館有」とあり、神明社境内に正安二年(一三〇〇)、正和二年(一三一三)の板碑各一基が現存し、開村の古さを物語る。集落東側の高台に中世の館跡があり、連郭性平坦面数個と空堀などを残す。

谷内村
やちむら

[現在地名]津南町谷内

赤沢あかさわ村の西にあたる。あしさき村から善光寺道を分岐して赤沢村本村を経て当村に通じる道は、南下しておか相吉あいよしの集落を経て秋山あきやま郷の中津なかつ川西側の諸集落に結ばれる。相吉の西には城原じようはらの集落がある。信濃川の上段段丘に位置し、最上段丘の天上てんじよう山・井戸いど峰の高原から湧出る清泉が豊富で、村内至るところ小池沼がある。村名の谷内は、この地方では湿地帯を意味する。りゆうくぼ池は谷内の南東、池の平いけのたいらの山麓にあり、立石たていしの池の別名もある。

谷内村
たにないむら

[現在地名]東和町谷内

東晴山ひがしはるやま村の南、鷹巣堂たかすどう村の東に位置し、西流するさるいし川中流左岸の河岸段丘と北上高地西辺の山間に立地。古くは種内と書かれたが、文化八年(一八一一)南部利敬が丹内と改めたという(和賀郡誌)正保国絵図に谷内村七六石余とある。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高一〇三石余、七ヵ年平均の免は二ツ七分八厘三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田方一六四石余・畑方九〇石余。宝暦八年(一七五八)の安俵高木通小高覚(多田文書)では小高一三八石余・総高八七二石余。「邦内郷村志」に「種内村一名谷内」とみえ、蔵分九六石余・給分一五五石余、家数七四。

谷内村
やちむら

[現在地名]津幡町谷内

能瀬のせ村の東方、能瀬川左岸の丘陵麓に位置。北は御門みかど村。「天文日記」天文五年(一五三六)九月二五日条によれば、「加州河北郡かるか野」を滋野井家に返還するよう木越光徳きごしこうとく寺に命じた際、本願寺証如は「彼在所さばき候仁」四人に同じく申付け、そのなかにみえる「やちの太郎衛門」は当地に居住していたと思われる。正保郷帳では高五七六石余、田方二八町四反余・畑方一〇町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高六三七石、免五ツ七歩、小物成は山役四〇八匁・蝋役三匁・綿役一匁(三箇国高物成帳)

谷内村
たにうちむら

[現在地名]能生町東谷内ひがしたにうち

能生川支流の川詰かわづめ川上流、標高二〇〇―三〇〇メートルの山中にある。西は川詰村、東は花立はなたて峠を越して西蒲生田にしかもうだ(現名立町)に通ずる。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳に高二五石一斗余とある。天和三年(一六八三)検地帳(東谷内区有文書)によれば、田方一町八反九畝余・畑方六町四畝余、田畑屋敷色高合三〇石八斗余、屋敷持百姓は一四名。花立峠への道の押えとして桝方ますがた山に谷内城が置かれた。徳合とくあい城から尾根伝いに六キロで、山頂から能生谷、名立なだち(現名立町)を一望におさめる。

谷内村
たにうちむら

[現在地名]相生町谷内

牛輪うしわ村の北、那賀川支流の谷内川下流域に位置する。中世は延野のぶの郷に含まれていたとみられ、鮎川の大宮あいかわのおおみや八幡神社に伝来する大般若経巻三三〇の奥書に「延野郷屋内清原(右馬允)倉弘」とみえる「屋内」は当地内の地名とされる。清原倉弘はこの巻の奉納者で、当地の領主であろう。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図に村名がみえるが、正保国絵図、寛文四年(一六六四)郷村高辻帳、天保郷帳には記載がない。

谷内村
やちむら

[現在地名]中島町谷内

熊木くまき川中流左岸に位置する山間の村で、南東対岸は上町かんまち村。集落は当地で同川に流入する大谷おおたに川に沿って散在する。初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高六五二俵余が土方領。うち約五割七分は百姓得分。同氏領は貞享元年(一六八四)から幕府領、以後元禄二年(一六八九)から同八年までの鳥居忠英領、同一一年から同一三年の水野勝長領の時代を除いて幕府領、享保七年(一七二二)から幕末まで加賀藩預地(七尾市史)。加賀藩領は天明六年(一七八六)幕府領(加賀藩預地)となる(加賀藩史料)

谷内村
やちむら

[現在地名]吉川町中谷内なかやち

北は深沢ふかさわ村、南は顕法寺けんぼうじ村に接し、西に標高一一五・六メートルの山があり、その北に六角ろつかく山がある。天正一四年(一五八六)から同二〇年の間に出された正月二八日の本願寺(顕如カ)印判状写(本覚坊文書)によれば「ヤチ村」は本願寺へ五〇疋(五〇〇文)を懇志として送っている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外九方分屋ち村 中」とみえ、本納一二〇石三斗一合・縄高一七二石六斗六升九合、家一八軒・七九人とある。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では高七四石五斗余。

谷内村
やちむら

[現在地名]八尾町谷内

柴橋しばはし村の南、室牧むろまき川右岸にある。正保郷帳に村名がみえ、村高はくぼ村と合せて高八九石余、田方一町五反余・畑方四町三反余。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳では高八九石余。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高五〇石。幕末の高五六石余・免四ツ五歩(古高免小物成銀等書上)。所属組は高熊たかくま村と同じ。慶応四年(一八六八)の高持家数一二・人数六六(郡方人別書上帳)。嘉永三年(一八五〇)成田千尋が山越(野積谷に流刑されること)となったことに伴い村内の清九郎家で「御取囲」することとなったものの、武士への食膳など賄方が不十分であるとして銀子八〇〇匁を郡奉行に出願している(「御用留帳」岡崎家文書)

谷内村
たにうちむら

[現在地名]大宮町字谷内

奥大野おくおおの村南東、竹野川の右岸に位置し、間人たいざ街道で水戸谷みとだに峠を越えて与謝郡上山田かみやまだ(現野田川町)へ通じる。西側は田圃が開ける。地内に古墳七基がある。慶長検地郷村帳に高六四六・四一石「谷内村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高で八〇九石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六年(一六六六)幕府領、同九年宮津藩領、延宝八年幕府領、翌九年宮津藩領、享保二年(一七一七)幕府領と変遷。

谷内村
やちむら

[現在地名]柿崎町東谷内ひがしやち

北東は中山なかやま村、南東には雁海がんかい村がある。南を米山よねやま川が流れる。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所此外九方分野知村 中」とみえ、本納一二〇石三斗一合・縄高一七四石六斗六升九合、家一八軒・七九人とある。正保国絵図では高一八〇石余とある。天和三年郷帳によれば高二一五石五斗余、うち山高五石二斗三升とある。享保九年(一七二四)の蝋実定納村々割付帳(石野武教氏蔵)によると、同年まで三ヵ年の平均値をとって定納高を決めたが、当村分は里蝋穂二貫七〇匁・山蝋実一升三勺。

谷内村
たにうちむら

[現在地名]丹後町谷内

上山うえやま岳の北方山麓、上山村と久僧きゆうそう村のほぼ中間に位置する。人家は吉野よしの川の川筋に沿って細長く散在し、かみ・中・下の三地区に分れる。中世宇川うかわ保の地といわれる。近世初期も宇川村の内で、慶長検地郷村帳に「宇川村之内 谷内村」と記される。寛文九年(一六六九)宇川村から分離・高付された。延宝三年郷村帳に高一一三・九一石とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で一五〇石余となった(天和元年宮津領村高帳)

谷内村
やちむら

[現在地名]糸魚川市西谷内にしやち

はや川左岸山裾にあり、堀切ほりきり村の西、北は田屋たや村、南は上覚じようかく村に接する。正保国絵図に高一二〇石余とある。天和三年郷帳に高一四五石三斗余とある。元禄郷帳に谷内村枝郷とされる笹倉ささくら新田は、天和三年郷帳では高三石七斗余である。

谷内村
やちむら

[現在地名]小千谷市谷内

山本やまもと(三三六・一メートル)西北麓にある。東は山本村、西は吉谷よしだに村・四ッ子よつこ村に続く。「新編会津風土記」には枝村に春山はるやまおきがみえる。正保国絵図に「谷川村」とあり、高二四〇石余。

谷内村
やちむら

[現在地名]上越市西谷内にしやち

北谷きただに村の南、桑取くわとり川の谷に位置。正保国絵図によれば高四〇石余。蓮浄寺本天和三年郷帳では一七石七斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報