霊元天皇(読み)レイゲンテンノウ

デジタル大辞泉 「霊元天皇」の意味・読み・例文・類語

れいげん‐てんのう〔‐テンワウ〕【霊元天皇】

[1654~1732]第112代天皇在位1663~1687。後水尾天皇皇子。名は識仁さとひと

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「霊元天皇」の意味・読み・例文・類語

れいげん‐てんのう‥テンワウ【霊元天皇】

  1. 第一一二代天皇。名は識仁(さとひと)。後水尾天皇の第一九皇子。母は権大納言園基音の女、国子。寛文三年(一六六三)に即位。在位二四年で貞享四年(一六八七)に譲位。陵は京都市東山区の月輪陵承応三~享保一七年(一六五四‐一七三二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「霊元天皇」の意味・わかりやすい解説

霊元天皇 (れいげんてんのう)
生没年:1654-1732(承応3-享保17)

第112代に数えられる天皇。在位1663-87年。名は識仁(さとひと)。後水尾天皇の第19皇子。誕生の年に兄後光明天皇の猶子となり,早くから皇嗣に予定されていたが,1663年(寛文3)10歳で後西天皇の譲りを受けて践祚した。87年(貞享4)皇子東山天皇に譲位したが,93年(元禄6)まで院政を行った。ついで1713年(正徳3)落飾,法名を素浄と称した。英明剛毅で学問を好み,文芸の才に富んだが,ことに歌道にすぐれて詠歌は6000首を超え,歌道関係の著述も30余種に上る。そのうち《一歩抄》《作例初学考》などは天皇の歌論を述べたものである。歌集を《桃蘂(とうずい)集》という。また広い教養と学殖,文才の一端は《乙夜随筆》《修学院御幸宸記》などによってもうかがうことができる。天皇はまた克己心が強く,夏も容易に扇子を用いず,冬も火鉢を使用しなかったという逸話もある。その在位中に多年中絶していた立太子礼の再興を見,譲位後に同じく大嘗祭の再興を見たが,これら重要な朝儀の復興は,天皇の事跡として特記される。天皇の追号は,古代の孝霊・孝元両天皇の諡号(しごう)の各1字を採り併せたもので,生前の勅定によるが,勅定の理由については所伝がない。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「霊元天皇」の解説

霊元天皇

没年:享保17.8.6(1732.9.24)
生年:承応3.5.25(1654.7.9)
江戸前期の天皇。後水尾天皇の第19皇子,高貴宮。母は園基音の娘国子(新広義門院)。諱は識仁。万治1(1658)年親王宣下,寛文3(1663)年1月26日践祚,同年4月27日即位。即位に当たり父後水尾は葉室頼業ら4人に「新主御用」の勤仕(のちの議奏)を命じて天皇の行跡や学問指導を指示,また人物を選び近習番を新設,幼い天皇の養育に配慮した。しかし生来性質英邁剛毅な天皇は,成長に伴い放埒な行動が目立ち,後水尾は議奏の職掌を天皇養育から宮中監督へと強化。次第に院派の公家衆と天皇近習衆との対立が表面化するようになる。後水尾の死後,天皇は院派で幕府協調路線をとる近衛基煕を越階して一条兼輝を関白に据え,近習衆による自己を中心とした朝廷再編を目指したため幕府の干渉を招いた。貞享4(1687)年譲位後も院政を積極的に展開するが,元禄3(1690)年近衛基煕が関白に就任すると,その権限は制限され再び朝幕協調の時代となる。朝廷復旧を志向し大嘗祭,立太子式の朝儀を再興,有職故実や宮中記録の整備に意を払った。文芸にも秀で,特に歌道では側近公家を中心に霊元院歌壇を形成した。歌集『桃蘂集』,歌論書『一歩抄』,『修学院御幸宸記』などの著作がある。京都泉涌寺内の 月輪陵 に葬られる。<参考文献>近世堂上和歌論集刊行会編『近世堂上和歌論集』,平井誠二「前期幕藩制と天皇」(『講座前近代の天皇』2巻)

(母利美和)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「霊元天皇」の解説

霊元天皇 れいげんてんのう

1654-1732 江戸時代前期,第112代天皇。在位1663-87。
承応(じょうおう)3年5月25日生まれ。後水尾天皇の第19皇子。母は藤原国子(新広義門院)。異母兄後西天皇の譲位をうけて10歳で即位。幕府は4代将軍徳川家綱,5代綱吉の時代にあたる。貞享(じょうきょう)4年譲位,その後東山・中御門(なかみかど)天皇の2代46年間院政をおこなう。和歌や漢詩,書道,絵画をよくした。享保(きょうほう)17年8月6日死去。79歳。墓所は月輪陵(つきのわのみささぎ)(京都市東山区)。幼称は高貴(あての)宮。諱(いみな)は識仁(さとひと)。法名は素浄。著作に「霊元院修学院御幸宸記(しんき)」など。
【格言など】名ある者はやがて雲井に聞えあげよ聞きて我が代の楽にせむ(「霊元院御集」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「霊元天皇」の意味・わかりやすい解説

霊元天皇
れいげんてんのう

[生]承応3(1654).5.25. 京都
[没]享保17(1732).8.6. 京都
第 112代の天皇 (在位 1663~87) 。後水尾天皇の皇子。母は藤原国子。名,識仁 (さとひと) 。幼名,高貴宮 (あでのみや) 。寛文3 (63) 年践祚,同年4月即位。延宝8 (80) 年父後水尾法皇の没後初めて政を司った。貞享4 (87) 年皇太子朝仁親王 (東山天皇) に譲位。正徳3 (1713) 年剃髪して素浄といった。享保6 (21) 年初めて修学院離宮御幸が行われ,以後春秋遊幸の地とされた。『修学院御幸宸記』 (『元陵御記』) がある。孝霊,孝元2帝の諡字により霊元院と追号された。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町の月輪陵。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「霊元天皇」の解説

霊元天皇
れいげんてんのう

1654.5.25~1732.8.6

在位1663.1.26~87.3.21

後水尾(ごみずのお)天皇の第19皇子。名は識仁(さとひと)。生母は園基音(もとおと)の女新広義門院国子。幼称高貴宮(あてのみや)。1654年(承応3)兄後光明天皇の養子となり儲君に治定。58年(万治元)親王宣下。62年(寛文2)12月元服し,翌年1月践祚。父法皇の没後は直接政務をとったが,側近らと事を謀ることが多く,朝廷内に軋轢が生じた。一方,大嘗会(だいじょうえ)の再興など朝儀の復興に意欲的であった。1713年(正徳3)8月落飾,法名素浄。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「霊元天皇」の意味・わかりやすい解説

霊元天皇
れいげんてんのう
(1654―1732)

第112代天皇(在位1663~87)。第108代後水尾(ごみずのお)天皇第18皇子。名は識仁(まさひと)。生母は新広義門院基子(贈左大臣園基音女)。中宮は新上西門院房子(関白鷹司教平(たかつかさのりひら)女)。1713年(正徳3)剃髪(ていはつ)、法名を素浄という。朝廷の典礼故実の保存復興に関する事績が少なくない。享保(きょうほう)17年8月6日崩御。御陵は京都東山今熊野にあり、月輪(つきのわ)陵という。

[辻 達也]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「霊元天皇」の解説

霊元天皇 (れいげんてんのう)

生年月日:1654年5月25日
江戸時代前期;中期の第112代の天皇
1732年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android