負名
ふみょう
平安時代以降、古代・中世において田畑を請作(うけさく)し、所当官物(しょとうかんもつ)の貢納を請け負う人、転じてその請作地を意味した。988年(永延2)11月の「尾張(おわり)国郡司百姓等解(ひゃくせいらのげ)」(『平安遺文』339号)に初見。負名は、班田制の行き詰まりと租庸調の未進・未納の慢性化のなかで、それを食い止めるために、有力百姓を名帳(みょうちょう)に登録し、田地の請作と納税の責任を負わせたことから生じた呼称で、10世紀に始まる。これらの田地は、負名の名をつけて某名(ぼうみょう)とよんだので、名(みょう)・名田(みょうでん)・負田(ふでん)などともいう。負名は初め公領に成立したが、荘園(しょうえん)でも取り入れられ、そこでも負名・名田などの語が使用された。また出作(でづくり)負名というのがあって、これは、荘民がほかに出作する場合、その出作先の田のことをさし、出作人は本来の荘園領主から負人(ふにん)とよばれ、依然、出作前の荘園領主から課税された。
[奥野中彦]
『村井康彦著『古代国家解体過程の研究』(1965・岩波書店)』▽『戸田芳実著『日本領主制成立史の研究』(1967・岩波書店)』
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負名
ふみょう
平安時代の公田請作人。受領(ずりょう)に対して所当官物などの納税を請け負った田堵(たと)クラスの有力農民。その呼称は田地の名を自分自身に負うことによる。初見は988年(永延2)の尾張国郡司百姓等解文(げぶみ)。当時の史料には「平民公田之負名」「出作負名」「出挙(すいこ)負名」などとみえる。徴税単位(土地)としての名(みょう)(負田)をさすこともある。律令制下では徴税は郡司と戸主の間でなされたが,郡司層の没落や律令制の変質によって郡司の部内支配が崩壊したため,受領は直接負名を掌握することによって徴税を実現する体制が出現した。のちに名主(みょうしゅ)とよばれるようになるが,在地領主層の台頭とともに負名体制は崩壊していった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の負名の言及
【田堵】より
…つまり,田堵は農業経営の専門家であったが,その反面,1098年(承徳2)丹波国波々伯部(ははかべ)村の田堵らが先祖相伝の所領計25町8反余を感神院に寄進したことなどからも知られるように,土地所有者としての側面ももっていた。この時代,収納の単位として名(みよう)があったが(その責任者が負名),田堵と名(負名)の両者の性格が一体化するとともに名主へと発展したとみられている。【中野 栄夫】。…
【国衙領】より
…律令制の[口分田](くぶんでん)・[公田]をその前身とし,平安時代10世紀の国制改革を経て成立した王朝国家体制下の公田に始まる。その支配方式は,国司が国内郡郷の公田数を検田帳や国図によって把握し,〈[名](みよう)〉を単位として負名あるいは田堵(たと)と呼ばれる大小の経営者に公田の耕作を請け負わせ,〈名〉の田数に応じて租税官物,諸雑事等を賦課し,これを徴収することを基本とした。国衙には税所,田所,調所,出納所,検非違所などの諸機関が設けられ,ここに配属された在庁官人,書生らや国司の下す諸国使が,国内の郡司,郷司,刀禰らを召集して,公田に対する勧農,検田,収納などもろもろの国務を遂行した。…
【百姓】より
…このように編戸にもとづく公民制,良賤・華夷の差別を維持することが,律令制支配の根幹であったが,一般公民の[浮浪・逃亡],奴婢の解放,蝦夷の征服と抵抗が進行するにともなって,律令制はしだいに変質・解体していく。とくに班田収授が行われなくなった公田や初期荘園において,〈土人・浪人を論ぜず〉に農人を定め,彼らを堪百姓,負名(ふみよう),[田堵](たと),[作人](さくにん)などと呼び,こうして生まれた新たな公民,荘民らが,王朝貴族支配下の百姓となった。彼らは公田,荘田を大小の〈名(みよう)〉に分割して経営し,名田に課せられる官物(かんもつ),地子(じし)の納入責任を負うが,令制下の公民のような人身支配をうけず,移動・居住の自由をみとめられ,百姓治田など私財を所有し,権利侵害や非法苛政に対して訴訟や上訴を行うことができた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」