改訂新版 世界大百科事典 「上田藩」の意味・わかりやすい解説
上田藩 (うえだはん)
信濃国(長野県)上田に藩庁を置いた譜代中藩。この地方出身の土豪真田昌幸が,1584年(天正12)上田に城を築き,翌年豊臣秀吉に随身することによって領主の地位を安定させた。これが上田藩の起りである。関ヶ原の戦には,昌幸と次男信繁(幸村)は西軍に属し,中山道を進もうとする徳川秀忠軍3万余を釘づけにして武名をあげたが,戦後は紀州の九度山に幽閉され,上田領は長男信之に与えられた。信之は父弟と分かれ,東軍に従って功があったからである。信之は上州の沼田に本領2万7000石をもっていたが,さらに上田周辺に6万8000石をもつことになったのである。しかし藩政確立に乗り出すやさき,1622年(元和8)松代(まつしろ)に移封された。代わって隣藩小諸(こもろ)から,仙石忠政が6万0088石(上田周辺5万石,川中島飛地1万0088石)で入封した。忠政とその子政俊の時代に領内支配体制を整え,各村に庄屋を置き,水帳も作成した。だがその水帳は貫高表示のままで石直しはできなかった。年貢割付は,1貫文につき籾何俵という形で行った。及び腰の領内統治だったのである。69年(寛文9)に政俊の弟政勝に2000石を分知し上田領は5万8088石となった。1706年(宝永3),仙石氏と交換の形で,但馬国出石(いずし)から入ったのが松平(藤井)忠周(ただちか)である。忠周は所司代,老中を歴任し,領内統治にも努めたが,2代忠愛(ただざね),3代忠順(ただより)の時代には藩主や江戸家老に奢侈や不正のうわさが出た。そして61年(宝暦11)にはこの藩最初の全藩惣百姓一揆(宝暦騒動という)が起こり,藩政改革を余儀なくされた。忠済(ただまさ),忠学(たださと)を経て,6代忠優(ただます)(忠固(ただかた)ともいう)は,姫路藩主酒井家から養子に入ったもので,幕末の通商条約の締結の際老中であった。忠優の死後,時流に流されながら維新期を迎えたが,1869年(明治2)世直し大一揆が起こって,廃藩置県を待たずして藩政は崩壊した。
執筆者:横山 十四男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報