賃金学説(読み)ちんぎんがくせつ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「賃金学説」の意味・わかりやすい解説

賃金学説
ちんぎんがくせつ

賃金の大きさやその変動を規定する要因を解明する理論総称。賃金は正しくない理論から正しい理論へでなく、その「大部分はある時代においてかなり重要であったかもしれぬある仮定が、次の時代には不適切ないし無意味なものになってしまうがゆえに、ある理論が他の理論によってとってかえられる」というのは、K・W・ロスチャイルドであった。

 また、「理論経済学者が賃金決定の一般問題や労働経済学に題目を転じるや、彼の声はとぎれ、彼の弁舌はためらいがちになる」というP・A・サミュエルソンは、論理的に相互に交錯しているとしながら、賃金の生存費説賃金基金説、賃金の不確定説もしくは交渉力および搾取説、賃金の限界生産力説、賃金の購買力説を掲げる。このうち経済学史上重要なものについて次に概観するのであるが、賃金は労働者の能力に対する「報酬」であるとする説と、「労働力の価格」であるとみる説とが、それぞれ賃金水準決定を説明しようとする。

[小泉幸之助]

賃金生存費説subsistence theory of wages

賃金生存費説は、きわめて低水準にあった産業革命期の労働者生活状態において、賃金は彼らの生存費を補償すればよいとした単純な結論から生まれている。

 古典派経済学から認知されたこの理論を、D・リカードは次のように説明する。労働者の実質賃金は長期にわたってみるならば、おそらく生存水準と等しい高さであろうとまず考える。たとえば、生存費以上に賃金水準が上昇するなら、労働者の生活水準は前より高まり、豊かな生活のもとで結婚し家族数を増やすに違いない。しかし、増加した家族数は労働者を増加させ、いままでの賃金水準をもとの位置まで引き戻してしまう。逆に最低生活費以下に賃金が落ち込むと、労働者生活は飢餓や幼児死亡率を高め、労働者数を減少に導く。まさに労働力供給の縮小であり、賃金はふたたび上昇に転じてくるはずである。

 最低生活費は、実際の賃金水準の上下変動に取り巻かれながら、長期労働供給線が横ばいであるならそれとほとんど同種の動きとなる。たとえ需要曲線上方シフトして需要量を増やしたところで、最低生活費に等しい賃金は動こうとしない。風俗・慣習が生存水準に影響することを認めても、長期的に実質賃金の変化はそれほど大きくないのである。

 この供給サイドの賃金説に対して、サミュエルソンは「かくも非現実な学説が非常な悪名を経済学に与えたことは、歴史の一つの皮肉である」と攻撃する。

[小泉幸之助]

賃金基金説wage fund theory

1820年ごろから展開した賃金基金説は、「賃金は人口との相対的分量に依存するのみならず、競争の原則下では、その他いかなるものによっても影響されない」と、J・S・ミルから説明される。資本と人口の変化から算出される社会全体の労働に支払われる基金量は、一定貨幣量であるとか消費財の存在量であるなどといわれていた。しかしこの理論の特徴は、労働者に支払う賃金の基金が一定の大きさである点に尽きよう。もし労働者が賃金水準を改善しようとしたところで、労働者自身の数量を制限する以外の方法しかありえない。ちなみにこれは、投資が賃金と雇用に顕著な作用を与えるというパイの理論の原型といえる。W・T・ソーントンの批判を受けたミルは、その後この説を撤回した。

[小泉幸之助]

賃金の交渉力説bargaining theory of wages

「労賃は資本家と労働者との敵対的闘争を通じて決定される」とするK・H・マルクスの見解は、交渉を超えた階級闘争であり、社会革命のなかに賃金決定を持ち込んでいる。その階級闘争の主体である労働組合の勢力によって、組合の賃金曲線は市場賃金を意味する右上がりの労働供給曲線の上方に、改めて描かれることになろう。また、J・T・ダンロップによると、交渉力の利益結果は、労使がどんな市場構造に位置するかによって決定されるという。交渉力が勢力だけでないことは確かであろう。

[小泉幸之助]

限界生産力説marginal productivity theory

生産要素間の代替可能性と企業の合理的行動、さらに生産の多様なプロセスの存在を前提として、限界生産力説は賃金を与件において労働の需要量を決定する。企業に利潤極大をもたらす雇用量は、労働の限界生産物価値と賃金に等しいところに定まる。

 もっともC・カーのように、雇用の準固定性から制度的労働市場概念を提示したり、内部労働市場論などの論議が出てくると、市場の完全性は失われてくる。つまり、雇用期間が無限小の単位で増減できなくなるので、限界生産力説の適用はむずかしい。フローである労働力からしだいに人間資本的に労働者をストック視すると、賃金決定論は新しい方向を模索しなければならなくなろう。

[小泉幸之助]

『J・R・ヒックス著、内田忠寿訳『賃金の理論』新版(1965・東洋経済新報社)』『下山房雄著『日本賃金学説史』(1966・日本評論社)』『M・T・ワーメル著、米田清貴・小林昇訳『古典派賃金理論の発展』(1958・未来社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例