改訂新版 世界大百科事典 「公害賠償制度」の意味・わかりやすい解説
公害賠償制度 (こうがいばいしょうせいど)
公害により被害を受けた住民が,公害発生者に対して不法行為を理由とする損害賠償請求をして救済を受けることができるという制度。しかしながら,実際においては,被害者がそのような救済を受けるためには多くの困難が存在する。その主たるものとしては,次のようなものがある。第1に,公害は,通常,長期間かつ広範囲にわたって,そして,ときには多くの者によって,さまざまな種類の汚染物質が排出されることによって発生するものであり,現実に生じた被害がだれの排出したどの汚染物質に起因するのかということを証明することはきわめて困難であるのみならず,ときには,公害による被害が通常の疾病と識別することが困難であり,被害発生そのものを証明することが困難である(因果関係の証明の困難性)。第2に,因果関係の証明の困難性とも関連するが,そのような汚染物質の排出が公害被害の原因となることが広く知られるようになったのは比較的最近のことであり,公害発生者がその公害発生行為を開始した時点において,被害発生を予測できたといえるのかは議論の余地のあるところであるとともに,それら公害を予防する技術が開発されたのもつい最近のことであり,公害発生者の公害の発生を回避すべきであったとすることがどこまでできるかという点も議論の余地がある(過失の証明の困難性),第3に,公害による被害,とりわけ,健康被害は,長期にわたって徐々に悪化するものであり,そのような被害を不法行為制度における伝統的な手法,すなわち,健康被害を逸失利益,積極的損害および慰謝料という三つの損害項目に区分し,それぞれを金銭に見積もり,積算するという手法によって金銭に評価することには,それぞれの損害項目の金額が十分に把握できない等の多くの問題がある(損害額算定の困難性)。
公害裁判の歴史は,以上に述べた困難性の克服の歴史でもあった。富山のイタイイタイ病訴訟,新潟および熊本の水俣病訴訟,三重の四日市喘息訴訟の,いわゆる四大公害訴訟を通じて,それらの困難性はしだいに克服されていったのである。因果関係の証明の困難性は,さまざまな統計データを活用する疫学的手法を因果関係の証明の手段として用いることが肯定されたこと(疫学的証明),および,複数汚染者による公害の場合には,それら複数汚染者間に〈関連共同性〉がみられるときには,個々の汚染者が被害発生の原因となっていることを証明する必要はなく,それら複数汚染者全体の汚染行為が被害発生の原因となっていることが証明されればよいとされること(共同不法行為理論の整備)によってかなりの程度軽減された。また,過失の証明の困難性は,公害発生者の結果予見義務および結果回避義務をきわめて厳しいものにすることによって克服された。さらに,損害額算定の困難性は,公害によってもたらされた被害を総体としてとらえ,慰謝料という名目のもとに一括して金銭に評価するという方法が採用されることによって解消された。
さて,不法行為を理由とする損害賠償請求は,以上のようにして,従来と比べるとかなりの程度においてその困難性が取り除かれたわけであるが,そのことは,公害被害者の救済が十分に満足しうる程度になされうるということを必ずしも意味するわけではない。なぜならば,第1に,不法行為を理由とする損害賠償を受けるためには,公害発生者が自発的にその責任の所在を認めないかぎり,裁判所による判決を経なければならず,そのような手順を踏んでいたのでは膨大な時間と費用と労力とが必要であるという事情,第2に,公害被害はきわめて多くの人々に生じており,それらの者すべてに賠償するとなると,莫大な資金が必要となリ,十分な賠償資力を持たない汚染者が賠償責任者とされる場合には,被害者は結局十分な賠償が得られないこととなるという事情,そして,第3に,多くの公害は,不特定多数の汚染者によって惹起されており,共同不法行為理論を整備したとしても,そもそも加害者を特定することが困難な場合があるとともに,かりに特定できたとしても,その者のみを賠償責任者としてとらえることは,いわば〈狙い撃ち〉をすることになり,公平な処理をすることにはならないという事情が存在するからである。
以上のような事情にかんがみ,日本では,公害被害の迅速かつ確実な救済という理念のもとに,公害健康被害補償制度という行政法上の被害者救済制度が設けられるに至っている。これは,公害健康被害補償法に基づいて設けられているものであり,現在,大気汚染による健康被害を受けた者と水質汚濁による健康被害を受けた者とが救済の対象とされている。そこでは,高度に汚染されているとして指定された地域に住居等(一定期間以上という限定がつく場合もある)をしている者が公害病として指定されている疾病に罹患すれば,公害病患者と認定され,個別的な因果関係の存否を問題とすることなく,救済が受けられるようになっているほか,被害者の補償のための資金を集めるために,〈PPP(汚染者負担)の原則〉を根拠に,大気汚染または水質汚濁の原因となる所定の汚染物質を環境中に排出する事業者から賦課金を徴収するようになっている。もっとも,現在,この制度に対しては,被害者側からは,〈水俣病認定〉に関してみられるように,公害病認定があまりにも厳格になされており,認定に時間がかかりすぎ,制度本来の目的である迅速な救済が達成されていないという不満が呈示されている。他方,汚染者側からも,事業者の汚染防止努力により大気汚染が大幅に改善されたにもかかわらず,公害病と認定される患者の数が減少せず,本来公害を原因としない患者までも救済しているのではないかという主張がなされている。
執筆者:新美 育文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報