赤倉村(読み)あかくらむら

日本歴史地名大系 「赤倉村」の解説

赤倉村
あかくらむら

[現在地名]熊野市育生いくせい町赤倉

南は札立ふだたて(五八一メートル)を越え金山かなやま村に通じる。北山川支流赤倉川の上流小盆地である。鎌倉時代西山にしやま郷に属し竹原氏の支配下に属したと考えられる。慶長六年(一六〇一)検地帳(徳川林政史蔵)に「赤蔵村」と記される。江戸時代初期入鹿組に属する。新田開発が行われ、寛文一一年(一六七一)・元禄四年(一六九一)・同一一年・宝永五年(一七〇八)新田検地(徳川林政史蔵)が残る。「紀伊続風土記」に「土民皆材木を出し筏に乗るを業とす」とあり、林業を主とする。元文元年(一七三六)の大差出帳控(熊野市教育委員会蔵)木地師が箸を生産するとある。

当村の西二キロの丹倉にくらには、高さ一五〇丈、横幅八町の熊野酸性岩の柱状節理の大岩壁が赤色を帯びてそびえる。


赤倉村
あかくらむら

[現在地名]小矢部市赤倉

わししま村の南東和沢わさわ村の北に位置。北境と東境の一部はみや川に接し、同川東側にも一部村域が広がる。村名は能登国鹿島かしま郡赤倉山の赤倉神社の分霊を勧請し、社を建てたことに由来するという(越中志徴)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「あかくら」とみえ、役家数六、二郎島孫次組に属する。正保郷帳では高三〇三石余、田方一九町四反・畑方八反余、新田高一四三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高五一五石・免五ツ四歩、小物成は野役三匁(三箇国高物成帳)。天保一〇年(一八三九)の高物成帳(菊池家文書)では、享和三年(一八〇三)から天保九年までの手上高計四二石を加え、高五五七石。


赤倉村
あかくらむら

[現在地名]大山町赤倉

熊野くまの川上流、現在の熊野川ダム右岸の山腹の小平坦地に集落を形成していた。西の対岸手出ていで村、上流は河内かわち村、下流長瀬ながせ村。正保郷帳の高一六石余、田方三反・畑方八反余、新田高二一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四一石、免三ツ、小物成は山役六三匁・炭役一〇匁・鮎川役二匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、元禄九年(一六九六)の川崩れで一四石の減石があり、草高二七石となる。


赤倉村
あかくらむら

[現在地名]松之山町赤倉

越道こえどう川の支流、ひがし(布川)西岸に位置し、西と南は坪野つぼの村。東川支流沿いを上ったところに坂下さかのした村の出作地であったはら集落がある。原・七通ななとおりの坂を経てじよう山を右に峠を越え、貝野かいの(現中魚沼郡中里村)へと下る道は赤倉越とよばれ、古くから魚沼地方との交易に利用された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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