改訂新版 世界大百科事典 「赤穂塩田」の意味・わかりやすい解説
赤穂塩田 (あこうえんでん)
赤穂の製塩は記録的には756年(天平勝宝8)までさかのぼりうる。10世紀末から13世紀中ごろまで稼働したと推定できる〈汲潮浜〉の遺構が,市内山麓で発掘調査された。13世紀には〈古式入浜〉が出現したと思われる。17世紀初頭の古地図と慶長検地帳によると,赤穂湾岸一帯に約100haの古式入浜の存在が確認できる。1625年(寛永2)ころ姫路藩東部に〈入浜塩田〉が出現し,45年(正保2)から赤穂でも造成が始まる。入浜塩田とは平均1.5haを生産・経営の単位とし,これに塩釜1基を合わせて一軒前といい,女,子ども合わせて約10人を前貸制賃労働として雇用した。経営者は浜人と呼ばれたが,身分上は本百姓として規制された。こういう塩田が浅野氏時代に約130ha,森氏時代に約150ha干拓され,最盛期には約350haが稼働した。塩釜部門では1822年(文政5)に石炭焚法が導入され,技術的進歩がみられた。1820年ころの勘定書によると,一軒前の年生産量4000俵,価格12貫匁,このうち燃料費50%,浜人得分15%,35%が運上,労賃,包装費などとなる。赤穂東西塩田総生産量は年約4万2000t,全国産額の7~8%であり,これが江戸・大坂を主とし北国・紀伊に販売された。
浅野氏は1680年(延宝8)より,森氏は1809年(文化6)より藩営専売を行った。生産塩を大坂で蔵物(くらもの)扱となし正貨を獲得し,生産者,廻船には藩札を支払うという方法である。しかし1821年には生産者の抵抗で中止した。18世紀にはいると浜人の階層分化がはじまり,塩田の地主制が展開し,塩廻船をもつ在地問屋に塩田が集中し,問屋=地主制製塩マニュファクチュアともいえるような形態があらわれる。天保期の塩業改革では,藩はこの形態を塩業の新しい構造とすることを企図したが,藩の極度の財政窮乏から成功させられなかった。明治維新では藩の塩業支配権が数軒の巨大な在地問屋に移譲された形となって,大きな混乱はなかった。1905年からの塩専売法の施行により,在地問屋は手船による販売利潤と口銭を失うこととなったが,一方では政府の買上代金を担保とした浜人への前貸しによって,実際は問屋が塩を一括して政府に売るという結果となった。以後は個々の塩釜が真空蒸発鑵による合同煎熬(せんごう)方式に発達したのみで,塩田法に進歩はなかった。
1950年ころからの労賃の高騰,戦中からの供給不足,外塩の圧迫は塩田の産業革命を誘起した。まず〈流下盤枝条架法〉が導入され,作業は1/10の労働で可能となり,農業的奉公人は採鹹作業員と変質し,同面積での生産は2倍となった。72年にはさらにイオン交換樹脂膜法に転換し,ここに1200年続いた塩田は消滅した。のち赤穂海水化学工業(現,日本海水)が生産を続けている。
→塩田
執筆者:広山 尭道
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