戦国時代の武将。高基(たかもと)の子。幼名亀若丸。母は宇都宮成綱(しげつな)の娘。古河公方(こがくぼう)第4代。北条氏綱(うじつな)の姉を妻にし、北条氏の勢威を背景に勢力の回復を図ったが、氏綱の死により1545年(天文14)には北条氏との関係を断った。同年10月上杉憲政(のりまさ)らとともに北条側の武蔵(むさし)河越(かわごえ)城を攻めたが、北条氏康(うじやす)軍のために敗れ古河に帰った。以後体制の立て直しを策したが失敗し、1552年家督を子の義氏(よしうじ)に譲った。1554年には子の藤氏とともに氏康を討とうとしたが失敗し、逆に古河城を落とされ、氏康により相模(さがみ)の波多野に幽閉、ついで下総(しもうさ)の関宿(せきやど)に隠居させられ、永禄(えいろく)3年5月27日同地にて没した。墓は千葉県野田市関宿台町の宗英寺にある。
[小要 博]
『佐藤博信編『足利高基・晴氏文書集』(1977・後北条氏研究会)』▽『古河市史編さん委員会編『古河市史 資料 中世編』(1981・古河市)』
戦国時代の武将。足利高基の子。第4代古河公方(こがくぼう)。幼名亀若丸。1528年(享禄1)越後長尾氏の援助を得て元服式をあげ,将軍義晴の偏諱(へんき)を得て晴氏と称した。父高基の方針のもとで後北条氏と婚姻関係を結び,氏康の妹(芳春院殿)をめとった。38年(天文7)北条氏綱の援助を得て小弓(おゆみ)公方足利義明を下総国府台(こうのだい)合戦で破った。その後,後北条氏からの自立を図り45年の河越城の戦で関東管領上杉憲政に味方して後北条氏と戦ったが,逆に敗れ,勢力を後退させた。52年後北条氏の血を引く梅千代王丸(義氏)に家督を譲ったが,その後,後北条氏に抵抗したため相模秦野に幽閉された。後日許されて下総関宿城に入り,60年同所で没した。墓は野田市の旧関宿町宗英寺にある。
執筆者:佐藤 博信
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(市村高男)
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