躑躅ヶ崎館(読み)つつじがさきやかた

日本の城がわかる事典 「躑躅ヶ崎館」の解説

つつじがさきやかた【躑躅ヶ崎館】

山梨県甲府市古府中町にあった城館。戦国時代の甲斐武田氏の居館(本城)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。外濠、内濠空濠に囲まれた三重構造の平城(ひらじろ)で、周囲をめぐる堀を含め東西約200m、南北約190mの規模だったと推定されている。甲斐守護武田氏の本拠はもともと甲府盆地東部の石和(笛吹市、旧東八代郡石和町)にあったが、第16代の武田信昌の時代に笛吹川沿岸の川田(甲府市)に居館を移した。その後、信昌の孫の武田信虎(武田信玄の父)は甲斐の有力国人を次々と制圧して甲斐統一を進め、1519年(永正16)に新たな居館の築城を開始した。これが躑躅ヶ崎館で、信虎は家臣や帰服した国人衆を居館周辺に住まわせ、新たな城下町をつくった。以降、晴信(信玄)、勝頼の3代にわたって、武田家当主の居館となった。また、同館の北方には詰(つめ)の城の要害山城(同市)、湯村山城(同市)が、後に甲府城(同市)が築かれた館南方の一条小山にも城砦が築かれた。信玄の時代の1543年(天文12)、城下からの出火で躑躅ヶ崎館は全焼している。1575年(天正3)の長篠の戦いの敗戦後、勝頼は領国の立て直しのため府中移転を計画、家臣団の反対を押し切って新府城(韮崎市)を築城し、1582年(天正10)に躑躅ヶ崎館から居城を移した。その際、勝頼は移転に反対する重臣たちを新城に移住させるため、館を徹底的に破壊したといわれる。その後間もなく織田・徳川連合軍の甲斐侵攻により武田氏は滅亡した。武田氏滅亡後、織田信長麾下の武将の川尻秀隆が躑躅ヶ崎に入城したが、同年の本能寺の変で信長が死去したことで甲斐に一揆が起こり、その混乱の中で秀隆は戦死した。その後、甲斐をめぐり徳川家康と北条氏直が争ったが(天正壬午の乱)、甲斐は徳川氏の領土となった。家康は当初、躑躅ヶ崎館に仮御殿を設けて拡張整備に着手し、天守台や曲輪(くるわ)を新設したが、間もなく同館の城将として派遣した家臣の平岩親吉に新たな城の建設を命じ、1590年(天正18)に甲府城(同市)が完成すると、甲斐の本城は甲府城に移り、それに伴い躑躅ヶ崎館は破却された。1919年(大正8)に、城館跡に武田神社が建立され、現在、城跡は同神社の境内になっている。ただし、神社が建設された際に南の石垣を崩して正門を建設するなど、かつての三重構造の縄張りが大幅に改変されてしまった。現在、境内には土塁、堀、石垣、虎口などの遺構が残っている。JR中央本線甲府駅からバスで武田神社下車。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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