輔仁親王(読み)すけひとしんのう

改訂新版 世界大百科事典 「輔仁親王」の意味・わかりやすい解説

輔仁親王 (すけひとしんのう)
生没年:1073-1119(延久5-元永2)

後三条天皇の第3皇子。母は源基子。父天皇は摂関家と外戚関係なく皇位に立ち,わずか4年で皇位を第1皇子貞仁親王白河天皇)に譲ったが,引き続き院中に政務をみる先例を開き,摂関家の勢力を抑えようとした。このため天皇は,さらに皇位継承の順序を定め,第2皇子実仁親王を白河天皇の皇太弟に立て,ついで第3皇子輔仁親王の立太子,即位を目ざした。しかしまもなく後三条天皇が没し,ついで皇太弟実仁親王が没するや,白河天皇は皇統を直系の子孫に伝えようとし,弟の輔仁親王を退けて,1086年(応徳3)11月皇子善仁親王(堀河天皇)を皇太子と定め,即日譲位して,ついに輔仁親王は皇位への道を断たれた。その後1113年(永久1)10月源俊房の子醍醐寺僧仁寛が親王のために鳥羽天皇を害しようとした事件で閉門蟄居した。親王は学才にすぐれ,詩歌をよくし,笙にも巧みで,当代有数の文化人として風雅の道にその名を残し,47歳で没したとき,《中右記》の記者藤原宗忠をして,〈風月の遊び,已に天下に滅ぶ〉と嘆息させたほどである。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「輔仁親王」の解説

輔仁親王

没年:元永2.11.28(1119.12.31)
生年:延久5.1.19(1073.2.28)
平安後期皇族。後三条天皇の第3皇子。母は参議源基平の娘(基子)。祖母の陽明門院禎子内親王に養育される。後三条天皇は在位わずか4年で第1皇子貞仁親王(白河天皇)に譲位,輔仁親王の同母兄の第2皇子実仁親王が皇太子に立てられた。次いで輔仁親王に皇位を継承すべく父後三条天皇の遺言があったが,応徳2(1085)年実仁親王が病没すると翌年,白河天皇は自らの子善仁親王(堀河天皇)を立太子し,譲位した。堀河天皇に継嗣の生まれない間,輔仁親王は隠然とした勢力を持って白河院政を圧迫していたが,永久1(1113)年親王の護持僧仁寛を首謀者とする鳥羽天皇暗殺陰謀事件が発覚,完全に失脚した。詩歌の才に優れ,『本朝無題詩』に漢詩みえ,また『金葉集』以下の勅撰集に17首の和歌が入集。天下の風流人であるうえに人望があり,世にいれらないことを惜しまれた。

(渡辺晴美)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「輔仁親王」の解説

輔仁親王
すけひとしんのう

1073.1.19~1119.11.28

後三条天皇の第3皇子。母は源基平の女基子。三宮。同母兄の実仁(さねひと)親王が父後三条の意志によって皇太子に立てられたので,1085年(応徳2)に実仁が死去すると,同母弟の輔仁は有力な皇位継承候補者とみなされ,白河天皇に対立する立場におかれた。1113年(永久元)には護持僧仁寛(にんかん)にからむ陰謀事件にまきこまれ,閉門させられている。詩歌に秀で,風雅の士として名が高かった。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「輔仁親王」の解説

輔仁親王 すけひとしんのう

1073-1119 平安時代中期-後期,後三条天皇の第3皇子。
延久5年1月19日生まれ。母は源基子。承保(じょうほう)2年親王となる。異母兄の白河天皇がその子(堀河天皇)に譲位したため皇位への道をたたれ閑居。永久元年護持僧仁寛(にんかん)らが親王の天皇即位をはかった事件で閉門謹慎。詩歌に長じていた。元永2年11月28日死去。47歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「輔仁親王」の解説

輔仁親王 (すけひとしんのう)

生年月日:1073年1月19日
平安時代後期の後三条天皇の第3皇子
1119年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の輔仁親王の言及

【白河天皇】より

…しかし同親王は85年(応徳2)に没した。実仁の次の皇位はその同母弟輔仁親王へというのが後三条の遺志であったらしいが,白河は翌年寵愛する中宮賢子(源顕房女,師実養女)所生の8歳の善仁親王を東宮とし即日譲位,以後幼帝堀河天皇の後見として政治に関与する。師実は堀河即位とともに摂政となるが,実権は上皇にあり,ここに院政の基が開かれた。…

※「輔仁親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」