精選版 日本国語大辞典 「近衛基通」の意味・読み・例文・類語
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(土谷恵)
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平安末期~鎌倉初期の公卿(くぎょう)。普賢寺(ふげんじ)殿。摂政(せっしょう)太政(だいじょう)大臣藤原基実(もとざね)の長子、母は従三位(じゅさんみ)藤原忠隆(ただたか)の女(むすめ)。父の死後、継母の平盛子(もりこ)の父清盛(きよもり)の後援を得て家督を継承、1179年(治承3)11月には、関白基実にかわって内大臣となり、ついで関白となった。83年(寿永2)の平氏都落ちにあたっては、後白河(ごしらかわ)法皇に危急を告げ延暦(えんりゃく)寺に避難させるなどの働きを示した。このため、以後、後白河の知遇を得、源頼朝(よりとも)の台頭以後も、亡命中の源義経(よしつね)をかくまうなど、鎌倉幕府に反抗的態度を示した人物として名高い。96年(建久7)には九条兼実(かねざね)にかわって関白に還任、翌々年摂政、1202年(建仁2)まで在職。天福(てんぷく)元年5月29日没。
[鈴木国弘]
平安末・鎌倉初期の摂関。藤原基実の長男。普賢寺殿と号した。1179年(治承3)平清盛や後白河院の支持により関白となり,木曾義仲により一時替えられたが,後に摂政に復す。しかし源頼朝は九条兼実を内覧に吹挙して基通を引退させた。その後兼実の失脚により再び関白となった。近衛家の事実上の祖。時々の権力者の庇護下に摂関家領を九条家と二分して伝領した。
執筆者:佐藤 圭
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…藤原氏北家の嫡流,五摂家の一つ。家号は始祖基実の殿第に由来するが,また近衛大路に面する宮門号にちなんで陽明ともいう。平安時代初期,藤原良房が人臣で初めて摂政となって以来,摂政・関白は藤原氏北家の嫡流に伝えられ,ついでその曾孫師輔の九条流に,さらに師輔の孫道長の御堂流に定着し,藤原氏長者も摂関の兼摂するところとなった。こうして平安時代末期の1158年(保元3)には,道長の6世の孫基実が父忠通の譲りにより16歳の若さで関白,氏長者となり,ついで摂政に任ぜられたが,基実が24歳で急死したため,弟の基房が摂政となり,さらに関白に任ぜられた。…
※「近衛基通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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