藤原長実(読み)ふじわらのながざね

改訂新版 世界大百科事典 「藤原長実」の意味・わかりやすい解説

藤原長実 (ふじわらのながざね)
生没年:1075-1133(承保2-長承2)

平安後期の廷臣藤原顕季長男。母は藤原経平の次女。父顕季が白河天皇に寵愛されたため,同院院司・別当を務め,院が没したときその骨壺を奉持する役を果たし,参議着任後わずか1年半で権中納言に抜擢され世人の注目を浴びた。官を越えられた藤原伊通(これみち)はこれを不満として参議・右兵衛督・中宮権大夫の3官を辞し,籠居した。鳥羽天皇にも信任され,同院別当にもなっている。1086年(応徳3)12歳で美濃権守となるほか,因幡尾張,播磨,伊予守などを歴任している。歌学は父顕季から弟顕輔に伝えられた。没後,女の得子(美福門院)が鳥羽院の皇后となり,近衛天皇を生んだことにより左大臣正一位を追贈された。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原長実」の解説

藤原長実

没年:長承2.8.19(1133.9.19)
生年承保2(1075)
平安後期の公卿。修理大夫藤原顕季と大宰大弐藤原経平の娘の子。11歳で叙爵。因幡,尾張,伊予,播磨などの国司を35年間続け,保安3(1122)年従三位,修理大夫・大宰大弐を経て,大治5(1130)年正三位権中納言に至る。晩年に大宰権帥(実質的な職務は大弐と同じ)となったことから二条の帥と呼ばれた。父が白河上皇近臣であったことから長実も上皇の恩顧を被り,10歳代前半からその院司となり,父同様近臣として活躍。天仁1(1108)年から6年ほど長実の大炊御門万利小路第が白河院御所となっていた。大治4(1129)年の白河法皇葬儀には深くかかわり,その後1年間法皇の為に仏事を修した。鳥羽上皇にも信任され同院別当に補されたが,官位の昇進が目ざましく,大治5年権中納言に任ぜられたときは,世間の注目を浴びた。娘得子(美福門院)は鳥羽上皇の寵を得て近衛天皇を生む。 父顕季を中心とする歌壇でも活躍,『金葉集』以下の勅撰集に20首入集。しかし歌学は弟の顕輔に伝えられた。永年の受領生活によって蓄えた財力から,人目を引く派手な振る舞いが目立った人物のようである。<参考文献>河野房雄『平安末期政治史研究』

(渡辺晴美)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原長実」の意味・わかりやすい解説

藤原長実
ふじわらのながざね
(1075―1133)

平安後期の公卿(くぎょう)。六条修理大夫顕季(しゅりのだいぶあきすえ)の長男。母は大宰大弐(だざいのだいに)藤原経平(つねひら)の娘。鳥羽(とば)天皇の皇后となった美福門院(びふくもんいん)(得子)の父として権勢を誇り、1130年(大治5)には正三位(しょうさんみ)・権中納言(ごんのちゅうなごん)に昇進した。父と同様に和歌にはすぐれたが、朝廷の公事(くじ)には不案内で、院近臣(いんのきんしん)として活躍したものの、白河(しらかわ)法皇の不興をしばしば買っている。美福門院が近衛(このえ)天皇を産んでいたことから、1146年(久安2)に正一位(しょういちい)・左大臣の位官を追贈された。

[槇 道雄]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原長実」の解説

藤原長実 ふじわらの-ながざね

1075-1133 平安時代後期の公卿(くぎょう)。
承保(じょうほう)2年生まれ。藤原顕季(あきすえ)の長男。母は藤原経平の娘。白河上皇の近臣。正三位,権(ごんの)中納言兼大宰権帥(だざいのごんのそち)となる。歌人としても活躍したが,六条家の歌学は弟顕輔につたえられた。長承2年8月19日死去。59歳。美福門院(近衛(このえ)天皇母)の父として左大臣,正一位を追贈された。通称は二条帥,八条贈左大臣。

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