道場村(読み)どうじようむら

日本歴史地名大系 「道場村」の解説

道場村
どうじようむら

[現在地名]浦和市道場一―五丁目・新開しびらき三丁目・栄和さかわ六丁目・町谷まちや二―四丁目・道場

新開村の北にあり、荒川の沖積低地に立地する。西は荒川を隔てて入間いるま宗岡むねおか(現志木市)。同川には治郎じろう河岸がある。かつて当地には大伽藍があったが、保元の乱で焼失、建久年中(一一九〇―九九)畠山重忠土中から観音像を得て一宇の道場を建てたのが村名の起りという(風土記稿)。この道場はのちに当地から与野町に移転した円乗えんじよう院とも、当地の金剛こんごう寺ともいうが不詳。地内には畠山重忠の館跡とされる堀の内ほんのうちという地があり、今でも堀の形を一部に残している。


道場村
どうじようむら

[現在地名]菊鹿町松尾まつお池永いけなが

木野きの川支流の初田はつた川の上流にあり、東は大林おおばやし村、西は龍徳りゆうとく村、南は木山きやま村、北は池田いけだ村と接する。字横枕よこまくらと上龍徳をわける初田川支流の合瀬あわせ(古閑)川一帯は、永禄二年(一五五九)赤星親家と隈部親永が戦った古戦場である(事蹟通考・国誌)。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、田三五町余・畑二五町五反余、分米五九五石二斗余、一一六名の高持百姓がみえる。近世は菊池郡深川手永に属した。


道場村
どうじようむら

[現在地名]日高町道場

稲葉いなんば川の下流域、久斗くと村の西に位置する。江戸時代の領主変遷は天保七年(一八三六)まで宵田よいだ村に同じ。同年幕府領となり(「御用部屋日記」など)、幕末に至る。慶長一八年(一六一三)の小出吉英所領目録(金井文書)に村名がみえ、高一三四石余。寛永一六年(一六三九)の知高帳では高一五三石余、うち二〇石余は畑高。


道場村
どうじようむら

[現在地名]榛原町道場

勝間田かつまた川の下流右岸に位置し、東は同川を隔てて川崎町かわさきちよう村。時宗清浄しようじよう寺を中心とした村で、時宗信者が念仏を唱える道場が村名の由来となったと考えられる。天正一七年(一五八九)七月七日の徳川家七ヵ条定書写(御庫本古文書纂)によると、徳川氏は道場村百姓らに対し七ヵ条の条規を定めている。文禄二年検地高目録にみえる下池道場高一三四石余は当村のことか。正保郷帳では高一三〇石余(田方のみ)、幕府領、ほかに証成しようじよう(清浄寺)領四石余がある。元禄郷帳では高一三九石余。村高は幕末まで変わらない。国立史料館本元禄郷帳および享保郷村高帳では旗本鍋島領。寛延四年(一七五一)の本多忠央領知目録では相良藩領。


道場村
どうじようむら

[現在地名]婦中町道場

井田いだ川中流右岸に位置し、東は中名なかのみよう村、西は下井沢しもいさわ村。中名村の枝村である(婦負郡志)正保郷帳ではほり村の内と記される。享保六年(一七二一)の高五八四石余(「村付高改帳」島倉家文書)。享和年間(一八〇一―〇四)の古高五七五石余・免三ツ二歩、新田高六斗余・免一ツ四歩、銀納畑三二八歩・代銀四匁九分二厘(「富山藩高物成帳」斎藤家文書)。文政八年(一八二五)には西本江組に属した。幕末には享和年間と比べ古高・新田高(畑作古高)は同じだが、免は三ツ三歩・一ツ五歩と増え、銀納畑は九分九厘と減っている(古高免小物成銀等書上)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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