江戸後期の蘭方医学者大槻玄沢(おおつきげんたく)(磐水)の蘭学塾名。1786年(天保6)5月長崎遊学から江戸に帰った玄沢は,いったん杉田玄白宅に身を寄せ,のち京橋1丁目,8月本材木町に単身居を構えた。この年の冬には幽蘭堂の名を用いているが,堂号なのか塾名なのか明らかでない。帰郷して母と妻子を伴ったのが翌年12月であり,88年8月に三十間堀4丁目に転居しているので,このころから芝蘭堂と改名し開塾したものであろう。芝蘭堂の門人帳(《載書》)は1789年(寛政1)6月からの記載で,それ以前の入門者(稲村三伯や橋本宗吉など)の名はみえないが,1826年(文政9)までの38年間に94人の入門署名血判を数える。芝蘭堂の住所も京橋水谷町(1793),木挽町(1797)と変わったが,玄沢の長男玄幹(磐里),孫玄東(磐泉)と続き,江戸における蘭学の一大中心として栄えた。
執筆者:宗田 一
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大槻玄沢(おおつきげんたく)が開いた蘭学塾。杉田玄白(げんぱく)、前野良沢(りょうたく)に蘭学を学んだ玄沢は、長崎に遊学しオランダ語を学び、1786年(天明6)江戸に戻り、仙台藩の藩医に登用され、江戸・本材木(ほんざいもく)町(東京都中央区)に住み、同時に塾を開き芝蘭堂と号した。その門人帳によれば、1789年(寛政1)より1826年(文政9)の間の門人は94人を数え、その出身は全国各地に及び、芝蘭堂は蘭学の一大中心をなした。芝蘭堂での蘭学教育入門書として玄沢が著したものが『蘭学階梯(かいてい)』である。また寛政(かんせい)6年閏(うるう)11月11日、蘭学者たちが太陽暦の新年1795年を祝ったようすが『芝蘭堂新元会図』として残されている。
[沼田 哲]
『沼田次郎著『洋学伝来の歴史』(1960・至文堂)』
大槻玄沢(おおつきげんたく)が経営した蘭学塾。1786年(天明6)仙台藩医大槻玄沢が江戸京橋に住み,開塾。本材木町,三十間堀,水谷町,木挽町,采女原,築地と移転。89年(寛政元)入学盟規が作られ,門人名が記録された。「載書」には94人の署名・血判がある。蘭学入門書「蘭学階梯」の普及とともに,全国から俊秀が集まり,95年1月1日から開催されたオランダ正月の賀宴とともに,江戸蘭学の中心的存在となり,全国的普及に大きな役割をはたした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…江戸後期の蘭学者。陸中西磐井郡中里に医家の長子として生まれ,幼名は陽吉,のち元節,さらに茂質(しげかた)と改名,字は子煥,黒沢の地にちなみ玄沢と通称,磐井川辺の地名にちなんで磐水と号し,堂号を幽蘭堂のち芝蘭堂(しらんどう)といった。父玄梁が仙台藩の支藩一関藩医に出仕後,同藩の同僚建部清庵門に入り,清庵の三男亮策が杉田玄白門に入ったのに刺激されて,請うて玄白に入門,前野良沢についてオランダ語を学び,さらに長崎に遊学して本木良永らに交わって語学力を深めた。…
※「芝蘭堂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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