古代日本において郡の下におかれた郷のおさ。郷は〈さと〉ともいい令の規定では里であり,戸令には〈凡そ戸は五十戸を以て里とせよ。里毎に長一人を置け〉とある。715年(霊亀1),式により里は郷と改称された。それにともない里長もまた郷長と改められた。里=郷は50戸よりなることから,〈五十戸長〉と書いて〈さとおさ〉とする例があり,また7世紀末と思われる事例では〈五十戸造〉の姓を有する者がある。おそらく〈さとのみやつこ〉と読み,里長の前身にあたるものではなかったかと思われる。令の規定によると,里長は白丁(課役をだす無位の正丁)の中から〈清正強幹者〉をとってこれにあて,もし当里に人を得られない場合は近傍の里の人を任命してもよいことになっていた。ただし,八位以下の者で希望する者があれば就任を許した。里長の任務は〈戸口を検校し,農桑を課殖し,非違を禁察し,賦役を催駈〉するほか,百姓に関する詔勅がだされた場合,里内を巡歴して周知徹底させる任務を負っていた。こうした里長の義務に対する特権としては,徭役(庸および雑徭)が免除されていた。こうした里長は,令の職員令に規定された官職ではなく,したがっていわゆる官人には属さなかったが,権力の最末端に位置し,公民百姓にとってはけむたい存在であったことは,《万葉集》の〈貧窮問答歌〉や,〈檀越(だにおち)やしかもな言ひそ里長が課役(えつき)徴らば汝も泣かむ〉などによく示されている。このほか郷長は田地や家地の売買に関与し,文書の作成や連署を加えており,749年(天平勝宝1)の《拓植郷長解》(東南院文書)を初見に,11世紀初頭まで多くの文書が残されている。郷長の活躍もこのころまでで,以後伊勢神領などを除き,郷長は消滅したようである。これに代わって郷司の名が現れるが,郷司は郡の分割の結果出現した郡司の一形態で,直接郷長の系譜につながるものではない。
執筆者:原 秀三郎
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律令制下の里の長である里長(りちょう)が,717年(養老元)の郷里制採用により改称したもの。任用方法・職掌などは里長と同じだが,8世紀後半~10世紀には土地売券を作成したり,証判を加えたりした。同一人が村長と表記されることもあるが,郷長と同じものかどうかは不明である。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…平安中・後期以降中世にみられる地方官。律令制下の郷(もと里)には郷長(もと里長)がおかれていたが,律令制の弛緩にともなってその地位はしだいに低下し,10世紀にはほとんど消滅した。これにかわって登場してくるのが郷司であるといっても大過はないが,当時郷と呼ばれたものの実態はさまざまなので,その系譜や規模を考慮し,郷司もさしあたり三つの類型に分けてみる必要がある。…
…律令制における地方統治制度。京師以外の地方諸国を国・郡(大宝律令以前は評)・里の行政組織をもって統治し,1里を50戸で構成する制度は,遅くとも浄御原令施行のころにはすでに実施されていたが,715年(霊亀1)の式により,従来の里を郷と改め,その郷の下部単位として新しく1郷に2~3の里を設け,郷には郷長,里には里正を任ずることとした。これを郷里制とよぶ。…
… 奈良時代には,公田の売買は禁止され,墾田・園地・宅地の売買は許された。その手続は,まず売主・買主間の売買合意書(辞状,解状(げじよう)などという)が土地所在地の郷長(ごうちよう)に提出され,郷長は審査のうえ,解状の形式でこれを郡へ,郡はこれを国へと上申する。郡・国はこれを審議して,それぞれに許可の文言を記し,その証拠に官印を押捺(おうなつ)した。…
※「郷長」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...
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