日本大百科全書(ニッポニカ) 「野田醤油」の意味・わかりやすい解説
野田醤油
のだしょうゆ
下総(しもうさ)国(千葉県)野田産のしょうゆ。永禄(えいろく)年間(1558~70)飯田市郎兵衛(いいだいちろべえ)なる者が豆油(たまり)をとり、清澄に成功したのが、当地における醸造のおこりで、飯田は川中島の合戦に際し、武田方にこれを納め、その美味が全軍の士気を大いに鼓舞したので、のち川中島御用溜(たまり)醤油の名を得たと伝えている。もっとも、事実上の野田醤油の始まりは1661年(寛文1)創業の高梨兵左衛門(たかなしへいざえもん)であったといわれる。高梨は上花輪(かみはなわ)村(野田市)の名主で土地持であり、この高梨家と並んで有力な茂木七左衛門(もぎしちざえもん)は明和(めいわ)年間(1764~72)の創業であるが、すでに1662年より味噌(みそ)の醸造にあたっていた。また1775年(安永4)創業の大塚弥五兵衛(やごへえ)も野田町の名主であった。このように野田醤油の醸造は名主富農あるいは富商によって行われたのであるが、元禄(げんろく)年間(1688~1704)から明和年代にかけては甲田三郎兵衛(さぶろべえ)という近江(おうみ)商人が醸造にあたっていた。
野田醤油の飛躍的発展を推進したのは高梨・茂木一族であった。野田醤油仲間は1781年(天明1)に結成された。このときの仲間は亀屋市郎兵衛(かめやいちろべえ)、高梨兵左衛門、柏屋七郎右衛門(かしわやしちろうえもん)、茂木七左衛門、大塚弥五兵衛、竹本五郎兵衛(ごろべえ)、杉崎市郎兵衛(いちろべえ)の7人である。キッコーマン印の茂木佐平治(さへいじ)が醸造を始めたのは1782年のことである。野田醤油の醸造家数と醸造石高(こくだか)の推移をみると、1832年(天保3)18軒、醸造石高2万3150石、53年(嘉永6)12軒、3万2200石、63年(文久3)10軒、4万4175石と、醸造家数が減少している反面、醸造高は急増している。
野田醤油の場合、原料である大豆は常州、小麦は相州産を中心とし、塩は多く関西からの下り塩を用いていた。野田は江戸に近く、江戸川の舟運を利用して、野田河岸(がし)から荷を短時間で江戸に送ることができるため、銚子(ちょうし)より有利な条件をもっていた。醸造の展開は銚子のほうが早かったが、幕末期に野田の醸造高が銚子を上回るに至ったのは、こうした江戸市場への立地とも深いかかわりがあることを見落としてはならない。
[川村 優]
『荒居英次著『銚子・野田の醤油』(『日本産業史大系5 関東編』所収・1960・東京大学出版会)』▽『川村優他著『千葉県の歴史』(1971・山川出版社)』▽『市山盛雄著『野田の醤油』(1980・崙書房)』