金崎村(読み)かねざきむら

日本歴史地名大系 「金崎村」の解説

金崎村
かねざきむら

[現在地名]宮崎市金崎

宮崎郡に属し、諸県もろかた糸原いとばる村の北、東流する本庄ほんじよう川右岸にある。西は堤内つつみうち村、北は本庄川を挟み宮王丸みやおうまる(現国富町)。兼崎とも記される。物資は本庄川を輸送され、下流には松ノ瀬渡があった。天正年間(一五七三―九二)に通用した日向国五郡分帳には宮崎郡の内に金崎一二町とみえるが、天正一六年の秋月種長宛の日向国知行方目録には諸県郡の内に「かねさき」一二町とある。慶長一八年(一六一三)の拝領仕知行方目録写(高鍋町歴史総合資料館蔵)には宮崎郡内兼崎三ヵ村とあり、三ヵ村合せて高九二九石余。


金崎村
かねざきむら

[現在地名]高来町金崎名かなさきみよう

湯江ゆえ村の南東に位置し、有明海に臨む。天正一二年(一五八四)龍造寺隆信に代わって当地などを掌握することになった鍋島直茂に、西郷氏一門一四名の一人として金崎伊予守種定が一〇月一六日付で起請文(「原左京亮純英等連署起請文」佐賀県立図書館蔵)を差出しており、当地を拠点としていた者と考えられる。江戸時代は諫早いさはや郷に属し、一時期を除き肥前佐賀藩親類同格の諫早家領。慶長国絵図に「浦村ノ内 金崎」とあり、正保国絵図では金崎村として高二一〇石余。


金崎村
かなさきむら

[現在地名]皆野町金崎・国神くにかみ

宝登ほど山の南、荒川の北岸に位置し、北東は藤谷淵ふじやぶち(現長瀞町)、西は金沢かねざわ村・下日野沢しもひのざわ村・大淵おおふち村、南は荒川を境に皆野村藤谷淵村より大淵村に向かう道が通る。至徳二年(一三八五)の年紀がある大般若経巻第四七〇(東京都青梅市塩船観音寺蔵)の奥書に「秩父白鳥国神住僧金資円成」とあり、この国上は地内国神に比定され、中世には白鳥しらとり郷内であったと考えられる。近世初めは幕府領、寛文六年(一六六六)土屋数直領となり、同九年幕府領に復する。


金崎村
かなさきむら

[現在地名]西方村金崎

現西方村の東北端、小倉おぐら(思川上流)西岸沿いの氾濫原沖積平野を占める。例幣使街道が通り、金崎宿が置かれた。慶長年間(一五九六―一六一五)に西方藩主藤田重信の家臣鮎田氏がしば村から五〇戸を移し、のち字木の宮きのみやの三〇石を加えて成立したという(西方記録)。慶安郷帳に村名がみえ、田一八〇石余・畑一〇七石余、武蔵岩槻藩領。


金崎村
かながさきむら

[現在地名]西伯町八金やかね

江原えばら村の東、東長田ひがしながた川の支流八金川の下流に位置する。同川上流北東は八子やこ村。金ヶ崎とも記す。拝領高は三八石余、本免は五ツ五分。藪役銀二匁が課され(藩史)、倉吉荒尾氏の給所であった(給人所付帳)。天明五年(一七八五)には物成米二五石余が株庄屋納めとされている。天保一五年(一八四四)には江原村との間で氏神社地の境界をめぐって争論が生じたが和談となっている(以上「在方諸事控」)。安政五年(一八五八)当村の清左衛門(のち板清六)は、法勝寺ほつしようじ宿近藤出店の問屋株と金山かなやま村の奥山鉄山所を買取り、文久三年(一八六三)には御国産方御趣向植物教諭となっている(「問屋株売渡廻状」近藤家文書など)


金崎村
かなさきむら

[現在地名]庄和町金崎

上金崎村の南にある。正保元年(一六四四)頃開かれたという(郡村誌)。延宝元年(一六七三)検地帳(石川家文書)によれば田三一町五反余・畠一三〇町余・屋敷一三町五反余で、ほかに五反余の寺地(道善寺)があった。翌二年の年貢割付状(同文書)に「寅年下金崎村御年貢可納割付事」とあり、この年に上金崎が分村したとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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