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金森長近 かなもりながちか

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

金森長近
かなもりながちか

[生]大永4(1524).近江,金森
[没]慶長13(1608).8.12. 伏見
安土桃山時代の武将。飛騨守定近の子。織田信長に仕えて柴田勝家を寄親として各地に転戦,戦功を立てた。賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき,天正 14 (1586) 年飛騨高山に3万 8000石で入封,関ヶ原の戦いでは徳川方に属した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

金森長近 かなもり-ながちか

1524-1608 戦国-江戸時代前期の武将,大名。
大永(たいえい)4年生まれ。織田信長,のち豊臣秀吉につかえる。天正(てんしょう)13年秀吉の命をうけて飛騨(ひだ)(岐阜県)の三木(みつき)氏をほろぼし,高山に城をきずく。関ケ原の戦いには徳川家康にしたがい,功により美濃(みの)(岐阜県)上有知(こうずち)など2万3000石を加増されて,飛騨高山藩主金森家初代となる。居城は上有知の小倉城。6万1000石。茶人としても知られた。慶長13年8月12日死去。85歳。美濃出身。本姓は大畑。初名は可近。号は素玄。

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朝日日本歴史人物事典の解説

金森長近

没年:慶長13.8.12(1608.9.20)
生年:大永4(1524)
安土桃山・江戸時代前期の武将。飛騨国高山藩(岐阜県)藩主。大畑定近の子。幼名五郎八。初め可近,のちに織田信長から諱の1字をもらい長近とし,剃髪して兵部卿法印素玄と号した。信長が加賀,越前を攻めた際これに従って活躍し,越前国大野郡に所領を得る。その後,豊臣秀吉の命で天正13(1585)年飛騨国を平定し,翌年同国をあてがわれる。同18年には高山の天神山古城に城を築く。慶長5(1600)年関ケ原の戦で軍功を立て,新たに美濃国上有知・関2万石,河内国金田3000石を得る。茶の湯,蹴鞠などに堪能で,茶は養子可重,さらにはその長男宗和に受け継がれ,宗和は茶の湯金森流の祖となった。古田織部との親交もみられ,この時代を代表する文化人のひとりといえよう。

(笹本正治)

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世界大百科事典 第2版の解説

かなもりながちか【金森長近】

1524‐1608(大永4‐慶長13)
安土桃山時代の武将。五郎八,飛驒守,兵部卿法印素玄。美濃土岐氏族。大畑定近の子で近江国野洲郡金森に移り,金森氏を称す。織田信長の臣として柴田勝家に属したが,賤ヶ岳(しずがたけ)の戦後豊臣秀吉に仕え,1586年(天正14)飛驒国高山に3万8700石で封ぜられる。小牧・小田原文禄の役に出陣。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦には徳川方に属した。茶人としても有名である。【笹本 正治】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

金森長近
かなもりながちか
(1524―1608)

安土(あづち)桃山時代の武将。通称五郎八、兵部大輔(ひょうぶたいふ)。土岐(とき)氏の支族大畑定近の子に生まれ、のち近江(おうみ)国(滋賀県)金森村に移り、氏を改めた。早く織田信長に仕えて長篠(ながしの)の戦いに功があった。のち豊臣(とよとみ)秀吉に仕え、1585年(天正13)飛騨(ひだ)の三木(みつき)氏を滅ぼし飛騨3万8000余石を得て、高山に城下町を整えた。関ヶ原の戦いには養子可重(ありしげ)とともに徳川家康に従い、上有知(こうずち)(美濃(みの)市)ほか2万3000石を加増され、高山城を可重に譲り、自らは上有知に小倉城を築いて住んだ。素玄(そげん)と号し茶の湯に通じて知られる。慶長(けいちょう)13年8月12日伏見(ふしみ)で没し、大徳寺内金竜院に葬られた。高山市の素玄寺は可重が建てた菩提(ぼだい)寺。[村瀬円良]

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世界大百科事典内の金森長近の言及

【大野[市]】より

…人口4万0245(1995)。現市街は天正年間(1573‐92)金森長近の亀山築城に始まり,1682年(天和2)以後は土井氏4万石の城下町として明治に至った。格子状の町割り,寺町などに旧景観を残している。…

【高山[市]】より

…人口6万6139(1995)。古くは飛驒国府が置かれたといわれるが,金森長近が飛驒全域を支配して城下町を経営して以来,飛驒の政治・経済・交通の中心地となった。その後,幕府直轄地となって陣屋が置かれた。…

【飛驒国】より

…その中からやがて三木氏が伸張して姉小路の名跡と飛驒国司号を継ぎ,織田信長死後は独立権力として運動しはじめる。1582年(天正10)には江馬氏,翌83年には広瀬氏を倒し,三木氏は白川地域の内ヶ島氏を除いてほぼ飛驒全域の覇者となったが,85年豊臣秀吉の派した金森長近の軍に抗戦,敗北した。同年大地震で内ヶ島氏の帰雲城も没落,翌86年には広範な飛驒の小領主連合の蜂起があったが,それも金森氏に鎮圧され,飛驒の中世は終わった。…

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