針生村
はりうむら
金屋村の南西にあり、東は赤崎松林。村名は開墾を表す言葉ハリ(墾)に由来するという。本村集落は東山丘陵北端西麓の平地に位置し、本村の北西に端村日照屋敷・天野沢、同所のさらに北に端村円田がある。日照屋敷に南接する桜屋敷は「新編会津風土記」では廃村となった端村として記載されるが、いつの頃からか民屋が再興された。ほかに本村の南に三屋、西に中和田の集落がある。また本村の北東地続きに五目村の端村二本木原がある。康安元年(一三六一)一〇月六日の佐原高明寄進状案(新編会津風土記)に加納庄の内として「針生村内笠張在家一宇」がみえ、青山城(現喜多方市)城主佐原高明は重代相伝の所領のうち同在家など三間を実相寺(現会津若松市)に寄進している。
針生村
はりゆうむら
[現在地名]田島町針生
大豆渡村・黒沢新田村の西に位置する。入小屋村(現南郷村)から駒止峠越で当村を経由し、小檜峠越で下野街道に合流する道があり、宿駅機能を果してきた。下針生・原・北根・鳥井戸・沖・上原・上川・宮ノ下・堀割・石橋の一〇坪からなる。南方の七ヶ岳(一六三五・八メートル)の北麓から駒止高原にかけては標高一〇〇〇―一二〇〇メートルの平坦な高原地帯で、極相林がブナ林であったこと、冬期降雪量が多く、夏期寒冷な気候であることから排水不良地に湿原が発達し、豊富な種類のミズゴケ群落が生育している。駒止湿原といい国指定天然記念物。
針生村
はりゆうむら
[現在地名]小国町針生
小渡村の北東、荒川支流貝少川の流域に位置する。西は新屋敷村。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高二五〇石余、免二ツ、家数一四(うち役家三)・人数五一、役木として漆をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は下。元禄一五年(一七〇二)の変地帳(上杉家文書)によれば枝村として新屋敷村をあげる。上杉領村目録によると高二八五石余、本免一ツ四分八厘三毛余。反別は田一八町余・畑二町三反余・屋敷六反余(文化八年改)、家数六・人数三七、馬八。
針生村
はりゆうむら
[現在地名]白鷹町針生
中山村の西に位置する。近世は村山郡に属し、北は同郡松原村・杉山村(現西村山郡朝日町)。元和八年(一六二二)左沢藩領となり、「最上記」に村名がみえ、高一六〇石余。寛永八年(一六三一)幕府領(庄内藩預地)、翌九年庄内藩領となる。慶安二年(一六四九)松山藩領となり、天明四―八年(一七八四―八八)一時幕府領となった時期を除き同藩領で幕末に至る。元禄六年(一六九三)の検地帳写(針生区有文書)によれば高一五六石余、田方四町二反余・畑方四町二反余、屋敷九反余(二二軒半分)、免四ツ一分。
針生村
はりゆうむら
[現在地名]矢板市針生・扇町二丁目
荒井村の東に位置する。慶安郷帳では高一〇三石余、田方七三石余・畑方二九石余、幕府領。元禄郷帳では高一〇四石余で旗本水野領。延享四年(一七四七)以後は下総佐倉藩領。旧高旧領取調帳には同藩領のほかに針生寺除地一斗余を記す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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