鋳物師村(読み)いもじむら

日本歴史地名大系 「鋳物師村」の解説

鋳物師村
いもじむら

[現在地名]蒲生町鋳物師

岡本おかもと村の南に位置し、現蒲生町域の南東端にあたり、南東は石原いしはら村・増田ましだ(現日野町)など。西部を日野川が北西流し、東半は丘陵地となっている。中央を北西―南東に御代参ごだいさん街道が通る。集落は街道沿いの本村、日野川西岸の新田しんでんに分れ、集落北東の垣内苗座なえざまたは内座ないざとよび、当村発祥の地と伝え、内座宮(田村社とも)を祀る。また内座にはかつて鋳物師を生業としていた家があったという。年未詳七月一一日の麻生庄百姓等重言上書(山部神社文書)に「檜物」とみえるのは地理的な関係から当地にあたるか。南倉民部丞弘俊が天文一六年(一五四七)中島北弥四郎に売却した伊勢神宮御師株に「いもしの里」がある(来田文書)。天正五年(一五七七)には摂津石山合戦に当地の門徒が出陣している(明性寺文書)

鋳物師村
いもじむら

[現在地名]敦賀市鋳物師

気比松原けひのまつばらに連続する浜堤の南端に位置し、東は松中まつなか村、西は櫛川くしかわ村。中世は野坂のざかしま郷に属したかと思われる。応永一三年(一四〇六)二月六日付如心寄進状(西福寺文書)の「櫛川金屋」、同二五年一一月一三日付守阿畠地寄進状(同文書)にみえる「越前国津金屋」は鋳物師村の旧称か。現武生市ほん町の大宝だいほう寺梵鐘銘に「元禄八年、越前州敦賀郡鋳物師村東金屋与吉・藤原朝臣家次」とあり、現在はら・櫛川の地籍に東金屋ひがしかなや・西金屋の小字名が残る。文亀三年(一五〇三)九月一〇日付の西福寺寺領目録(同文書)にみえる「鋳師屋」は前出の「金屋」の別称と考えられる。

鋳物師村
いものしむら

[現在地名]南条町鋳物師

日野山の南麓に位置し、南部を牧谷まきだに川が西流する。東は牧谷村。村名は慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録にみえ、村高三〇四・八石、先高二一四・三七石・出分九〇・四三石とある。「越前地理指南」に「東に銀山の跡アリ、東の山ニ滝アリ 漲三丈幅一尺 不動滝ト云」とあり、銀山跡は字不動山ふどうやまにあたり、村名のとおり鋳物師集落であったことが知られる。

正保郷帳によれば田方二三五石余・畠方六九石余。

鋳物師村
いもじむら

[現在地名]村上市鋳物師

北西へ流れる門前もんぜん川の右岸平地にあり、対岸の山裾にふくろ集落がある。北西は大関おおせき村、南東は川を隔てて菅沼すがぬま村。門前村の鋳物師により開かれた村ともいわれる。永正六年(一五〇九)九月一一日の耕雲寺領納所方田帳(耕雲寺文書)には「鋳物師屋八郎大郎」として「五百地柿木田役百五十文 平四郎殿之分」、「鋳物師屋衛門五郎」として「二百五十地八幡之前役七十五文 旦阿弥分」などの記載が多く、耕雲こううん寺領とのかかわりが大きい。

鋳物師村
いもじむら

[現在地名]伊丹市鋳物師一―四丁目

きた村の枝郷で本村の北西に位置する。領主の変遷は本村に同じ。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳に北村のうちとして「いもし村」とみえる。寛文年間(一六六一―七三)の北村絵図(大鹿土地改良区蔵)には「北村ノ内いもし屋」とある。産土神の天満神社は通称臂岡ひじおか天満宮とよばれ、延喜年間(九〇一―九二三)創立といい、菅原道真が大宰府に流される際に立寄ったとの伝承をもつ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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