長国寺(読み)ちようこくじ

日本歴史地名大系 「長国寺」の解説

長国寺
ちようこくじ

[現在地名]熊本市横手一丁目

高麗門外こうらいもんがいにあり、南は高麗門から横手よこて村に通ずる道路を挟んで禅定ぜんじよう寺、東は正立しようりゆう寺、西は筒口つつぐち御屋敷に接する。安住山中正院と号し、日蓮宗、本尊十界大曼荼羅。「国誌」によると寺領五〇石、祈祷料白銀二貫目、開基は慶長年中(一五九六―一六一五)南正院日助という。明暦(一六五五―五八)頃の絵図には中正ちゆうしよう院と記し、正立寺のすぐ西側から広い寺地となっている。しかし元禄(一六八八―一七〇四)頃の絵図では長国寺と記される。江戸時代初期には中正院と称したが、寛文三年(一六六三)七月本妙ほんみよう寺の塔頭から身延山末寺にするよう変更の願出をし、本寺本妙寺と論議を起こした(熊本藩年表稿)

長国寺
ちようこくじ

[現在地名]長野市松代町田町

真田家歴代の菩提寺曹洞宗真田山長国寺。本尊は釈迦如来

真田幸隆が上州箕輪城に在住の時、同所長源寺の僧晃運と約束し、天文一六年(一五四七)晃運を招き開山とし、真田山長谷寺と称した。これが現小県郡真田町字旗見原の長谷寺で、その後天正一二年(一五八四)上田城建設後、城下に移されたが、更に元和八年(一六二二)真田信之の松代への移封に伴って松代へ移された。

慶安二年(一六四九)徳川家光より寺領一〇〇石の朱印地を受ける。

長国寺
ちようこくじ

[現在地名]恵那市大井

横町よこまち川の北側にあり、稲荷山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。天文年間(一五三二―五五)了翁がこの地に来て庵を建てて住した。そこで大井おおいの井口七郎が御所の前ごしよのまえに土地を提供し、寺を移し井口山長谷寺とした。了翁は後継者として土岐郡平岩ひらいわ(現瑞浪市)開元かいげん院の体巌雲如を招いた。体巌は慶長二年(一五九七)檀徒と相談し、旧跡である現在地に新寺を建立した。このため当寺の開山は体巌である。寺蔵の縁起書によれば、大宝二年(七〇二)行基の草創でその後廃絶

長国寺
ちようこくじ

[現在地名]牛堀町上戸

曹洞宗、大興山と号し、本尊は聖観音。寺伝によれば創建は文明二年(一四七〇)で、島崎左衛門尉長国が奥州岩城いわき(現福島県いわき市)から虚叟英仲を招いて島崎しまざき村に開基し、菩提寺としたことに始まり、永正年間(一五〇四―二一)現在地に移建したという。開基帳(彰考館蔵)には「奥州岩城竜門寺末寺、御朱印先高拾石、一、拾九石三斗、大猷院様頂戴仕候、寺開基土御門御宇文明二年嶋崎左衛門建立、当卯迄弐百拾六年、末寺廿六ケ寺、百姓旦那五百人」とあり、かつて「霞ケ浦禅林」と称された盛時がしのばれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「長国寺」の解説

長国寺

(長野県長野市)
信州の古寺百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android