日本歴史地名大系 「大井村」の解説
大井村
おおいむら
- 山口県:萩市
- 大井村
北東は
嘉暦四年(一三二九)の某氏宿殿屋敷宛行状(大井八幡宮文書)に「阿武郡大井郷」とある。文和元年(一三五二)の大井八幡宮の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」には左座の三番に大井郷がみえる。
大井川河口は元来袋状の地であったため海流の影響が少なく阿武川河口より早く沖積を終えた。したがって古代遺跡が多くその規模も大きい。とくに右岸南向きの山麓一帯は古代の遺跡・遺物が
大井村
おおいむら
- 東京都:品川区
- 大井村
南品川宿の南に位置する現品川区域最大の村。東は海に面して海沿いを江戸時代の東海道が走り、
寛永二一年(一六四四)の検地によると高一千一〇〇石余、屋敷地を含め反別二一三町六反余(大井町誌)。田園簿では田方四八六石余・畑方六三八石余、ほかに屋敷地一町五反余があり、見取場。幕府領。元禄一〇年(一六九七)には田五五町八反余、畑・屋敷一四一町四反余で高一千六三四石余。ほかに雑木林九一ヵ所・藪四六ヵ所・芝原一〇ヵ所・萱芦野四四ヵ所・雑木御林があり、寺社地や獄門場(鈴ヶ森刑場)もあった(「大井村鑑」大井町誌)。享和四年(一八〇四)には家数五五五・人数二千五一九(男一千三〇八・女一千二一一)。多くは農業に従事しているが、海辺の村として船大工・肴仲買・船持などの諸職がみられる。また東海道沿いの村であるため茶水商・湯屋・質屋古着屋などの業種も存在していた(「明細帳之内増減書上帳」大井町誌)。
大井村
おおいむら
佐治川下流の南岸にあり、東は
大井村
おおいむら
寛永二年(一六二五)の旗本本多正貫の領知目録写に「大井村三百三拾五石八斗余」とみえ、以後の領主の変遷は
大井村
おおいむら
正和二年(一三一三)五月二日の天野顕茂と同景広の亡父天野観景(景茂)の遺領をめぐる争いの和与を承認した関東下知状(尊経閣古文書纂)に「遠江国大結・福沢」とあり、正応二年(一二八九)三月三〇日の譲状で景広へ譲与されたことが確認されている。この両所は観景姑由比尼是心の遺領で、観景女子尼是勝と顕茂・景広との間で遺領をめぐる争いがあり、番訴陳を経て和与となり、景広分の大結・福沢の半分を是勝に引渡すこととされた(文保元年六月七日「関東下知状」同書)。
大井村
おおいむら
現大井町の南東部の台地に立地し、
大井村
おおいむら
「備中誌」に
大井村
おおいむら
五村の南に位置。西流する
大井村
おおいむら
- 岐阜県:恵那市
- 大井村
木曾川左岸にあり、
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
- 徳島県:阿南市
- 大井村
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
- 高知県:安芸市
- 大井村
大井本村の集落は
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
- 千葉県:館山市
- 大井村
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
だいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
- 埼玉県:行田市
- 大井村
大井村
おおいむら
- 三重県:熊野市
- 大井村
大井村
おおいむら
大井村
だいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
- 京都府:亀岡市
- 大井村
丹後道沿いにあり、南は並河村、北は
寛永一一年(一六三四)
大井村
おおいむら
大井村
おおいむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報