大井村(読み)おおいむら

日本歴史地名大系 「大井村」の解説

大井村
おおいむら

[現在地名]萩市大井 七重ななえ市場いちば庄屋しようや円光寺えんこうじ馬場ばば土井どい坂本さかもとみなと港浜みなとはま門前もんぜん本郷ほんごう羽賀はがの各全域、および大井 うら後地うしろじ貞平さだひらの大部分

阿武あぶ郡中央山間に源を発して西流、日本海に注ぐ大井川の下流域に広がる村。

北東は奈古なご(現阿武郡阿武町)、東は紫福しぶき(現阿武郡福栄村)、南は黒川くろがわ(現福栄村)椿東分つばきひがしぶん、北西はみなと浦・大井おおい浦を隔てて日本海に面する。

嘉暦四年(一三二九)の某氏宿殿屋敷宛行状(大井八幡宮文書)に「阿武郡大井郷」とある。文和元年(一三五二)大井八幡宮の宮座文書「御祭礼郷々社頭座敷本帳之事」には左座の三番に大井郷がみえる。

大井川河口は元来袋状の地であったため海流の影響が少なく阿武川河口より早く沖積を終えた。したがって古代遺跡が多くその規模も大きい。とくに右岸南向きの山麓一帯は古代の遺跡・遺物が宮の馬場みやのばば遺跡をはじめ、弥生時代の遺物が西久田にしくた(宮の馬場の西)・七重・庄屋などに多数出土する。おもな古墳に円光寺穴観音えんこうじあなかんのん古墳・円光寺古墳・湊古墳・松崎まつざき古墳・重地じゆうち古墳がある。また、塔の郷とうのごう石棺群・円光寺石棺群・櫛山くしやま石棺群・本郷石棺・重地石棺などがある。とくに円光寺古墳は阿武国造の阿牟君の墓であろうといわれる。すなわち、北浦に臨む阿武郡のなかでも大井が最も早く開発が進み、そのなかから豪族が成長して大和朝廷により阿武国造に任ぜられたと解される。

大井村
おおいむら

[現在地名]品川区大井一―七丁目・東大井ひがしおおい一―六丁目・西大井にしおおい一―六丁目・南大井みなみおおい一―六丁目

南品川宿の南に位置する現品川区域最大の村。東は海に面して海沿いを江戸時代の東海道が走り、立会たちあい川が蛇行しながら東流して海に注ぐ。大森おおもり貝塚の所在地。古代の東海道大井駅(「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条)の比定地の一であり、鎌倉時代には国衙領大井郷(地頭は紀氏姓大井氏)の中心地。徳川家康は関東入部にあたり当地を経て江戸へ向かったと伝え(天正日記)、家康によって整備され、伝馬制が布かれた江戸―小田原間の幹線も当村経由であった(のちの東海道)。このほか池上本門寺(現大田区)への参詣道でもあった池上道も通る。

寛永二一年(一六四四)の検地によると高一千一〇〇石余、屋敷地を含め反別二一三町六反余(大井町誌)。田園簿では田方四八六石余・畑方六三八石余、ほかに屋敷地一町五反余があり、見取場。幕府領。元禄一〇年(一六九七)には田五五町八反余、畑・屋敷一四一町四反余で高一千六三四石余。ほかに雑木林九一ヵ所・藪四六ヵ所・芝原一〇ヵ所・萱芦野四四ヵ所・雑木御林があり、寺社地や獄門場(鈴ヶ森刑場)もあった(「大井村鑑」大井町誌)。享和四年(一八〇四)には家数五五五・人数二千五一九(男一千三〇八・女一千二一一)。多くは農業に従事しているが、海辺の村として船大工・肴仲買・船持などの諸職がみられる。また東海道沿いの村であるため茶水商・湯屋・質屋古着屋などの業種も存在していた(「明細帳之内増減書上帳」大井町誌)

大井村
おおいむら

[現在地名]佐治村大井

佐治川下流の南岸にあり、東は苅地かるち村、西は森坪もりつぼ村と古市ふるいち村。集落は河岸段丘上に点在する。大井村を本村とし、砂原すなはら村・定福寺じようふくじ村を枝村とする。定福寺村は古市村から土橋を渡ったところにあり、その奥に砂原村、さらに四町ばかり奥に大井村がある(因幡志)。中世においては、佐治氏による佐治谷支配の中核的位置を占めていたと考えられる(鳥取県史)。文永三年(一二六六)四月一三日の沙弥正仁相博状(因幡民談記)によれば、佐治郷の地頭佐治氏は「佐治南大井屋敷」を「下の屋敷」と、「大井田内」の公田三反半を大水おおみずにあった私領と交換しているが、これらの屋敷が佐治郷を支配する拠点であろう。応永二〇年(一四一三)八月日の佐治南方大井知行分目録(同書)では、佐治氏の知行地のうち八反が大井村にあり、うち一反は「大日堂免 大福寺」と記され、一反は普妙庵の免田、一反は畠成で山根方・河原方に等分されている。残り五反のうち四反半は河原方、一八〇歩は山根方である。大井村の字と推定される「河原」は田数八反三〇〇歩、うち一反は「熊野(祭カ)田」、一反半は「同熊野薬師堂免 妙光寺」と記され、一反小は大久庵の免田、残る定田五反のうち三反は河原方自作、二反は山根方とある。さらに「袋尻田数参段半」のうち二反は「大久菴免」、一反半は山根方とあるが、袋尻ふくろじりは当地と刈地かるちに字名として残る。なお、河原・山根は佐治谷の住人で、佐治氏と農民の中間に位置する地侍層と推定される(鳥取県史)。「因幡民談記」に載る建武五年(一三三八)四月一日の棟札に「大居大工安部広泰」の署名があり、大居は当地のことと推定される。

大井村
おおいむら

[現在地名]沼南町大井・緑台みどりだい大津おおつおか

塚崎つかさき村の北、大津おおつ川の河口右岸に位置する。北は手賀てが沼に面し(のち地先を開発して持添の大井村新田が成立)、大津川を挟んで対岸は戸張とばり(現柏市)。何本かの谷津が入り込み、集落はいくつかの小集落(ホラとよぶ)に分れている。船戸ふなと新船戸あらぶなと追花おつけ中郷なかごう大木戸おおきど中の橋なかのはし井堀内いほりうちがそれである。古代相馬そうま郡大井郷の遺称地とされ、平将門が新しい都の大津にしようと構想したとされる「相馬郡大井津」(「将門記」、「今昔物語集」巻二五)を当地に比定する説もある。応永二年(一三九五)の追筆のある南相馬郡等田数注進状案(相馬文書)には「 おほ井のむら 二十丁四反」とある。「本土寺過去帳」によると「大井ノ大夫」妙覚が文明一九年(一四八七)一〇月二七日に没している。年紀の判明するものでは現沼南町域では最も古い文永二年(一二六五)銘の阿弥陀三尊を含め四基の常総系板碑、一〇〇基以上の武蔵型板碑が地内に残る。大津川の東台地上には大井追花おおいおつけ城跡があり、大木戸・大木戸出口おおきどでぐち殿山とのやまなどの地名がある。

寛永二年(一六二五)の旗本本多正貫の領知目録写に「大井村三百三拾五石八斗余」とみえ、以後の領主の変遷は高柳たかやなぎ村に同じ。

大井村
おおいむら

[現在地名]佐久間町大井

戸口とぐち村の東にある。天竜川左岸と南流して同川に注ぐおくやま(旧名大井川・杼生川、現水窪川)の下流域に広がり、東に竜頭りゆうとう(一三五・六メートル)がある。豊田とよだ郡に属する。「遠江国風土記伝」には里として西之渡・大滝おおたき平輪ひらわ・小川・七久保山・間庄ましようなど、「遠淡海地志」は小地名として瀬戸せと・真正・大滝・泉村・福沢ふくざわ・相摺・西村・仙土せんどを記す。文政一一年(一八二八)の村明細帳(平出家文書)では「当村至而場所悪く嶮岨之村立ニ而石垣無之屋敷壱軒茂無御座候」と記し、谷底平地を利用する福沢地区以外は山腹の斜面に小集落が分散している。

正和二年(一三一三)五月二日の天野顕茂と同景広の亡父天野観景(景茂)の遺領をめぐる争いの和与を承認した関東下知状(尊経閣古文書纂)に「遠江国大結・福沢」とあり、正応二年(一二八九)三月三〇日の譲状で景広へ譲与されたことが確認されている。この両所は観景姑由比尼是心の遺領で、観景女子尼是勝と顕茂・景広との間で遺領をめぐる争いがあり、番訴陳を経て和与となり、景広分の大結・福沢の半分を是勝に引渡すこととされた(文保元年六月七日「関東下知状」同書)

大井村
おおいむら

[現在地名]大井町大井

現大井町の南東部の台地に立地し、砂川すながわ堀が東流する。東部の大井戸おおいどに平安時代の井戸遺構があり、これが村名由来と伝える。縄文時代の東台ひがしだい・西台・小田久保おだくぼなどの遺跡がある。平安末期村山党出自の大井五郎大夫家綱が当地域を開発したと伝える(大井町史)。小田原衆所領役帳に御家門方の北条幻庵(長綱)知行地として「五拾貫四百廿四文 入東郡太井郷」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。永禄六年(一五六三)四月一六日逃散していた大井郷百姓らに還住して田畠の開発に当たるよう北条氏より命令が出されている(「北条家印判状」塩野文書)。天正六年(一五七八)と推定される正月、北条幻庵は大井郷名主・百姓中に対して一五人・馬一五疋を出して鯨井くじらい(現川越市)から幻庵の所領である上依知かみえち(現神奈川県厚木市)まで兵粮を運ぶよう命じている(「北条幻庵印判状」同文書)

大井村
おおいむら

[現在地名]岡山市大井

上足守かみあしもり村の北に位置する。「和名抄」賀陽郡大井郷に比定され、中世には大井庄が成立する。村の中央で足守川(大井川)日近ひぢかい川を合せて曲流しつつ南流する。吉備高原を流れ下った両川の谷口に発達した集落で、交通上の要地。日近川沿いの道は寛永備中国絵図に「備前之内勝尾村出ル道」として記載がある。足守川沿いの道は大山往来と称され、上房じようぼう吉川よしかわ(現賀陽町)に通じる。足守に陣屋町が形成されるまでは、市場町として栄えたという。鍛冶山かじやま城は足守川の左岸、上足守村との境近くに川を見下ろすようにあり、天正一〇年(一五八二)宮地山みやじやま城攻めの際には羽柴方が拠ったという。

「備中誌」に二面ふたもを古名と伝え、足守川に架かる二面橋などに今もその名を残す。

大井村
おおいむら

[現在地名]虎姫町大井・西大井にしおおい

五村の南に位置。西流するあね川が村域を南北に二分、それぞれを北大井・南大井と称する。「和名抄」の浅井郡大井郷の遺称地。応永二三年(一四一六)一二月一五日の売券(総持寺文書)に記された「坂□北郡」の地一反の売主「大井村堂福林寺」は当地にあったものと考えられる。永享七年(一四三五)七月、大井村住人の祐成が長浜八幡宮の勧進猿楽に一貫文を奉加している(「長浜八幡宮奉加帳」東浅井郡志)。なお年月日未詳の同宮修理田帳(同書)に「大井村之御宮せうさ房大井村」とあり四反が、同宮御塔寄進田帳(同書)には「西大井村住僧祐成」とあり二反がそれぞれ寄進されている。

大井村
おおいむら

[現在地名]恵那市大井町

木曾川左岸にあり、阿木あぎ川が村の西寄りを北流し、北東流する永田ながた川が合流し、平地を形成する。北の木曾川対岸は毛呂窪けろくぼ村と蛭川ひるかわ(現恵那郡蛭川村)、東は枝郷岡瀬沢おかせざわを越えると茄子川なすびがわ(現中津川市)に続く。古代東山道の大井駅が置かれ、近世にも中山道の宿場として栄えた。「続日本後紀」承和七年(八四〇)四月二三日条に大井駅家とある。中世には大井郷は遠山とおやま庄の内で、貞治六年(一三六七)安居院行知は勅命により解官され、知行していた遠山庄内大井郷などが他人に宛行われている(愚管記)。大井郷はその後、京都天龍寺香厳院領となり、長禄四年(一四六〇)九月二八日には大井郷別当職について、香厳院修山和尚が守護不入の権利を得ている(蔭涼軒日録)

大井村
おおいむら

[現在地名]藤井寺市大井一―五丁目・西大井にしおおい一―二丁目・川北かわきた一―三丁目・北條ほうじよう

志紀郡に属し、北條村より新大和川に沿って西に位置する。応永三年(一三九六)七月二九日の足利義満安堵状案(教興寺文書)に大井庄がみえ、教興きようこう(現八尾市)に安堵されている。正保郷帳の写とみられる河内国一国村高控帳によれば一千一六八石余。宝永元年(一七〇四)大和川付替えにより、二三七石余の土地を川敷地として失い、元文二年(一七三七)の河内国高帳では九三〇石余。

大井村
おおいむら

[現在地名]阿南市大井町・大田井町おおたいちよう

十八女さかり村の西に位置し、南は那賀なか川を挟んで水井すい村・細野ほその村。貞治六年(一三六七)五月一三日の判管周・修造坊菅昌能連署請文写(古今消息集)に「(那カ)賀山庄領家方平島・大田両郷」とみえる大田郷は現大田井町付近に比定される。平島ひらじま(現那賀川町)・大田両郷は内蔵権頭(五辻朝仲)の管領の地であったが、この日崇光上皇は京都天龍寺の造営料足として来年から一〇ヵ年、両郷の年貢のうち春・秋・冬各二五貫文、合せて七五貫文を毎年寄進することとしている。

大井村
おおいむら

[現在地名]南知多町大井

片名かたな村の北にある。「寛文覚書」によれば、概高七九七石余、田地三五町七反八畝余、畑地三一町二反六畝余、うち四〇〇石は高木八郎右衛門の給知。戸数七五、人口八二一。小船四艘があり、舟役御用の時水主を出す。漁師船一八艘。将軍上洛・朝鮮使節通行の時人馬を出すとある。文化一三年(一八一六)の戎講組合船数帳(内田家所蔵)によると元禄四年(一六九一)の船数四一艘、三〇四石積であった。「徇行記」によれば、北部海沿いに海田鼻かいだはなが張出して田地があり、港西岸の集落に民家が縦横に建並ぶ。

大井村
おおいむら

[現在地名]安芸市大井

大井本村の集落は伊尾木いおき川中流の山間部に位置し、はちたに集落は江川えがわ川上流に散在する。北は古井こい村、南は黒瀬くろせ村。川沿いに水田がわずかに開ける。伊尾木川沿いに別役べつちやく村を経て阿波国に至る道が通り、また八ノ谷から江川川沿いに南へ下ると江川村に通じる。中世は有井ありい庄に含まれて早くから開けた集落で、安芸一帯を領有した安芸親氏が延慶元年(一三〇八)二月付で城普請のために百姓に出役を割当てた城普請定書(安芸文書)に「大井名」がみえる。

大井村
おおいむら

[現在地名]小高町大井

東流する小高川の北岸に位置し、対岸は岡田おかだ村、西は小高村。応永二年(一三九五)一〇月二一日の相馬憲胤譲状(相馬文書)によると、「大井村内伊豆守之跡田在家」が憲胤の嫡子胤弘に譲られている。正保郷帳では田方五三八石余・畑方一七五石余。明暦二年(一六五六)の高一千二三石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高七九三石余。なお元禄検地高は一千三五五石余、ほかに新田八石余がある(奥相志)

大井村
おおいむら

[現在地名]館山市大井

水玉みずたま村の東に位置し、館山平野最奥部の谷に展開する。字角田つのだには約三〇基の横穴墓群がある。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録では高四五三石余(うち田三六八石余)、同一五年の里見家分限帳では大目付正木蔵人、町奉行黒川権右衛門、廿人衆細野修理の給知。正保郷帳では高四七三石余(うち田三八六石余)、北条藩領。ほかに大井大明神ともよばれた当地の手力雄たぢからお大明神領高四三石余。同社領を除いては、享保一二年(一七二七)の安房国村々助郷請帳(岩崎家文書)では旗本三浦領。

大井村
おおいむら

[現在地名]丸山町大井

川谷かわやつ村の北、丸山川上流の渓谷に立地する山村で、北から東にかけては嶺岡みねおか山地に展開する嶺岡牧。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録には大井本郷おおいほんごう(高四二八石余、うち田方一四〇石余)・大井五反目村(高二四八石余、うち田方一二八石余)の二村として掲載され、いずれも里見氏直轄領。同一一年・同一五年の里見家分限帳でも二村(大井本郷村・五反目村)で、同高。

大井村
おおいむら

[現在地名]宗像市大井・大井台おおいだい和歌美台わかみだい

田熊たぐま村の西にあり、北は田島たしま村。村の名は大井戸という清泉があることに由来する。宗像宮祭の土器を製造した所と伝える土器田かわらけでんという地名がある(続風土記拾遺)。「宗像大菩薩御縁起」に太井明神社、正平二十三年宗像宮年中行事(宗像大社所蔵文書/神道大系神社編四九宗像)には太井明神・大井明神がみえる。「宗像神社史」は大井字前の神社であろうとする。小早川時代の指出前之帳では田島村の枝村として用山もちやま村・釈迦院しやかいんとともに村名がみえる。慶長石高帳では大井・釈迦院の二村を合せて慶長九年(一六〇四)の検地高一千一四石余、うち大豆六二石余。

大井村
おおいむら

[現在地名]那智勝浦町南大居みなみおおい井鹿いじし

太田おおた川に支流井鹿川が合流する地に広がる大村。西はなかかわ村。慶長検地高目録によれば村高四九〇石余、小物成一・八五三石。「続風土記」によれば寛永一八年(一六四一)北部に井鹿村を分村した。近世後期の「新宮領分見聞記」によれば、本村の家数一一九、石高二三二石余、免五ツ九分。分村井鹿村は高六三石余となっている。天保郷帳では本村四七三石余、井鹿村九五石余と大幅に増石。両村とも大田組に属し、和歌山藩新宮領。「続風土記」によれば享保一二年(一七二七)太田川沿いの長井ながい村内上長井かみながいに堰を設けて井溝を作り、当村の田を潤したという。

大井村
だいむら

[現在地名]遊佐町庄泉しよういずみ

岩川いわがわ村の北西にあり、西は大服部おおはつとり村。「大泉庄三権現縁記」永正三年(一五〇六)の記事に、「大井」は「砂越城主武藤万歳丸殿御分地」とある。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高五七六石余。明暦二年(一六五六)の検毛帳(飽海郡誌)では高五一一石余、ほかに大井村後藤寺高五五石余・大井新田高二六石余。享和三年(一八〇三)には家数三〇・人数一二五(「村数家数人高控帳」斎藤文書)。庄内要覧によれば免六ツ四分二厘、家数三三。大井新田は寛永一一年(一六三四)下野沢しものざわ村菅原次右衛門・上楸島かみぐみじま村石川作右衛門が藩命によって、由利ゆり仙北せんぼく(現秋田県)に欠落した農民を連戻し開発したもの(「村々旧記調書上帳」飽海郡誌)

大井村
おおいむら

[現在地名]海部町大井

富田とみだ村の北に位置し、東を海部川が南流する。地内の大井遺跡では一三世紀代の和泉型瓦器碗が出土しており、中世の集落遺跡であったことが知られる。慶長二年(一五九七)の分限帳に「大井村」とあり、高二四〇石余が益田宮内丞の知行分。慶長年間のものと推定される国絵図に「於ゝい」とみえ、また「姫村」「のふ山」(能山)とあるのは当地内であろう。寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図では「大井村」と記され、また「姫村」「のふ山村」が記載される。

大井村
おおいむら

[現在地名]行田市棚田町たなだちよう・棚田・清水町しみずちよう壱里山町いちりやまちよう西新町にししんまち深水町ふかみちよう門井町かどいちよう・門井・押上町おしあげちよう、北足立郡吹上ふきあげ北新宿きたしんしゆく・新宿、熊谷市太井おおい

持田もちだ村の南に位置する。暦応三年(一三四〇)一月二四日、安保光泰が惣領泰規に譲り渡した所領のうちに武蔵国「崎西郡大井郷三分一」があった(「安保光泰譲状」安保文書)。田園簿・元禄郷帳・天保郷帳とも大井村一村として高付するが、「風土記稿」によると正徳二年(一七一二)村内を新宿(現吹上町)・太井(現熊谷市)・棚田・門井の四地区に分けたという。大井四ヵ村と称して村ごとに名主を置いた(元禄―宝永期の忍領覚帳)

大井村
おおいむら

[現在地名]熊野市育生いくせい町大井

長井ながい村の北西、北山川左岸に沿う。鎌倉時代西山にしやま郷の内で、竹原氏の支配に属したと考えられる。近世は大沼おおぬま(現和歌山県北山村)の枝郷。「紀伊続風土記」によれば、本村にあたる大沼の読みは「於保能」。慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に記される大野村であり、北山川右岸の地である。慶長六年(一六〇一)の紀州室郡内大沼村之内大井御検地帳(写)の表題をもつ史料(徳川林政史蔵)も伝わっている。新宮領で新宮北山組に属する。慶長一九年大和の北山より起こった北山一揆の者らが、新宮浅野家の兵に追われ、北山川を隔てて鉄砲を撃合い、この辺りで多く捕らえられたという(紀伊続風土記)

大井村
おおいむら

[現在地名]久美浜町字大井

しろ山が突き出して佐濃さの谷が狭くなった部分の山麓に集落をつくる。北のせき村、南の一分いちぶ村に通じる。また西の大谷おおたにを越すと海士あま村に至る。

延宝三年郷村帳に一分村に続けて「同大井分」高二八九・六七五石とみえるが、延宝九年(一六八一)の延高で三一六石余となり、「大井村」と記される(天和元年宮津領村高帳)。延宝八年に一分村より分離したと伝える(熊野郡誌)。宝暦一〇年(一七六〇)の大井村明細帳(渋谷家蔵文書)に、家数五四軒、人数二〇〇人、牛六疋と記す。

大井村
だいむら

[現在地名]瀬戸町大井だいい

鍛冶屋かじや村東方に位置し、大盛山(三五〇・九メートル)南西尾根麓に集落がある。当地に古くからいた井上氏のすすめで岸本氏の祖大江氏が開拓したので、両者の一字をとって村名としたという(岸本胖内碑文)。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)吉岡よしおか庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高一六〇石余。「備陽記」に「太井だい村 前は大井村ト唱」とある。正徳五年(一七一五)に「おおい」から「だい」に呼称を変えた(撮要録)。同書によると山寄り集落で、岡山京橋(現岡山市)まで道程五里。田畠一六町五反余、家数六五・人数三八九、池二。

大井村
おおいむら

[現在地名]根尾村大井

水鳥みどり村の北西、門脇かどわき村の西に位置し、根尾西谷ねおにしたに川右岸の山麓段丘に集落がある。枝村に八谷やたに村があり、谷川八筋北西の山々より流れ来て、ここに落合っているので村名としたという(新撰美濃志)。正保郷帳から大野郡に属し、同帳によれば田二三石余・畑八四石余・山年貢一〇石余・紙桑木高一〇石余。貞享二年(一六八五)大垣藩の内検で村高二四九石余となった(大垣領村々高帳)。同三年大垣藩は根尾筋村々へ一千五〇〇間の段木を割付けたが、当村は二〇三間(約一割四分)を分担した(「印形目録御物成帳控」所文書)。以前から熊の胆を大垣藩に上納していたが、宝暦一四年(一七六四)の胆代金は二両三分、別に褒美金一両が下付されている(大垣藩地方雑記)

大井村
おおいむら

[現在地名]君津市大井

大鷲おおわし村の東、小糸こいと川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三四〇石。元和三年(一六一七)知行宛行状により旗本永田領となる。寛文一二年(一六七二)の内山検地帳(石出家文書)によると三一町六反余(うち新開山七反余)・野銭永二〇九文。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数三九、幕府領と旗本永田・堀の二家領。幕末も領主は同じ(旧高旧領取調帳)。寛文七年(一六六七)大出水で小糸川の流れが変わり、中島なかじま村と境論になったが、境界は川の流れ筋であるという方針に従い、立毛部分以外は当村支配とされた。

大井村
おおいむら

[現在地名]茎崎村大井・池の台いけのだい西の沢にしのさわ松の里まつのさと

小野おの川右岸の台地上にあり、北は樋沢ひのさわ村。弘安大田文の「河内郡廿七丁七段半」のなかに「大井四丁一段六十歩」とあり、別に「大井庄七十二丁一段」も記される。大井庄は嘉元大田文には「河内郡内也」と注記され、当地付近に比定されるが、詳細は不明。元和二年(一六一六)谷田部藩領となり(寛政重修諸家譜)、「寛文朱印留」に村名が載る。元禄郷帳の村高は二九〇石余で、天保郷帳では四二一石余に増加する。

大井村
おおいむら

[現在地名]足助町大井

現国道一五三号に沿う。東は小田こだ村・細田ほそだ村、南は永野ながの村、西は八桑やくわ村・菅田和すげだわ村、北は鳥巣とりのす(現旭町)に接する。集落は小起伏面上の国道に沿う山麓に点在。村域西端を美濃街道、現主要地方道土岐―足助線が通る。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領。

大井村
おおいむら

[現在地名]長南町豊原とよはら 大井

西湖せいこ村の北西に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一〇六石で、幕末までほぼ変わらない。寛文四年(一六六四)の久世広之領知目録(寛文朱印留)に村名がみえる。寛政五年(一七九三)の村明細帳(石橋家文書)では一三町九反余で家数二二・人数七九、農間には縄を編む。

大井村
おおいむら

[現在地名]植木町大井

南は岩野いわの村、東と北は吉松よしまつ村、西は石野いしの村に接し、中央を岩野川が流れる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田一〇町八反三畝余・畠一四町五反八畝余、分米二一九石一斗余。同一三年の検地帳では田一五町九反七畝・畠一七町八反九畝余、分米二〇五石余、家数一八・人数四七、馬牛一二。下ケ名には西田・天神免・小路かうら・宮ノ下・井ノ本などがある。

大井村
おおいむら

[現在地名]松江市大井町

福富ふくとみ村の北に位置し、東は中海に臨む。西は朝酌あさくみ村。中世は平浜ひらはま八幡宮領八幡やわた庄に含まれていたとみられる。慶長一六年(一六一一)の検地帳が残るが、内容は乱帳のため未詳。元禄十年出雲国郷帳によると高二四九石余、寛文四年(一六六四)には本田高二四九石余。「雲陽大数録」では高二二〇石、番所があり、名産として大井芹が載る。「郡村誌」によると田三四町七反余・畑一六町六反余・宅地二町九反余、戸数七四・人数三三九、牛八・馬三、日本形荷船三四があり、物産は赤貝二〇〇石・生茶二〇〇貫目・櫨実一千二〇〇貫目・薪一万一千貫目、民業は農業六七戸・工業四戸。

大井村
おおいむら

[現在地名]富山市大井

中布目なかぬのめ村の南に位置し、西は青柳あおやなぎ村。富山藩領。かつては青柳村に含まれ、元禄一二年(一六九九)に分村したとされる(牧田水舞神社旧記)。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高三五五石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高三四四石余・定免三ツ九歩、新田高八石余・平均免四歩八厘余、野役四匁余・鮎川役一匁を課されていた。

大井村
おおいむら

[現在地名]亀岡市大井町並河なみかわ

丹後道沿いにあり、南は並河村、北は土田つちだ村、東は大堰おおい川が流れ、西は田が広がる。街道筋には農家・商家が入り交じって居住した。

寛永一一年(一六三四)せんはた村と大井村との領地替があり、それまで仙洞御料であった大井村が園部藩領、園部藩領であった千ヶ畑村が仙洞御料となった。

大井村
おおいむら

[現在地名]宮川村大井

神滝こうたき村の南西、宮川の右岸にあり、周囲を山が囲む。文禄検地帳(徳川林政史蔵)には「三瀬谷之内大井村」と記される。開発の史料として宝永元年(一七〇四)の新田畑申改検地帳(同蔵)が伝わる。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数二三、人数一三五。郷役米四斗三合、茶口として金一両、銀一二匁二分七厘、鹿皮代米一斗五升四合、竈運上銀二匁二分五厘を負担していた。

大井村
おおいむら

[現在地名]白石町大字横手よこて字大井

現白石町の南東部に位置し、南は現有明町に接した田園の中の散村である。正保絵図に村名がみえる。

この地域は鎌倉時代に稲佐いなさ城主日向氏(のちの白石氏)の所有となり、室町時代には須古すこ城主平井氏の領地となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報