長尾為景(読み)ながおためかげ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「長尾為景」の意味・わかりやすい解説

長尾為景
ながおためかげ
(?―1541)

戦国期の武将越後守護代。越後国守護代長尾能景(よしかげ)の子。景虎(かげとら)(上杉謙信)の父。弾正左衛門尉(だんじょうさえもんのじょう)、信濃守。道号は蘇久(そきゅう)・黄博(こうはく)・桃渓庵宗弘(とうけいあんそうこう)・紋竹庵張恕(もんちくあんちょうじょ)。法名道七。1507年(永正4)8月、守護上杉房能(ふさよし)と対立し敗死させ、上杉定実(さだざね)を守護の地位につける。1513年には上杉定実と対立。翌年5月これを下し、守護不在の状況をつくり一国を支配しようとした。1528年(享禄1)将軍足利義晴から、白傘袋(しろかさぶくろ)・毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)の格式を許され、家格を上昇させることに成功。1536年(天文5)長尾氏の勢力拡大に反対する上杉一族の上条定憲(じょうじょうさだのり)や有力領主層との抗争に敗れ隠居し、長尾晴景家督を譲った。1541年12月24日、死去。

[矢田俊文]

『矢田俊文著『上杉謙信』(2005・ミネルヴァ書房)』『阿部洋輔著「高野山に供養された新発田の人びと」(新発田郷土研究会編『新発田郷土誌37』所収・2009)』

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改訂新版 世界大百科事典 「長尾為景」の意味・わかりやすい解説

長尾為景 (ながおためかげ)
生没年:?-1540(天文9)

戦国時代の武将。弾正左衛門尉,のち信濃守,入道して宗弘,張恕。法名道七。越後守護代長尾能景の子。父の死後,1507年(永正4)守護代となる。国内諸将を糾合して守護上杉房能を追放して定実を守護に擁立し,房能の兄の関東管領上杉顕定との抗争にも勝って越後の事実上の国主となる。国内守護派との抗争,畠山氏と結んで越中一向一揆と戦うなど戦陣に明け暮れる一生を送り,幕府からは守護大名と同等の格式を与えられた。しかし,為景一代では戦国大名化は成功せず,為景の強大化をきらう国内の有力国人衆との抗争が繰り返された(享禄・天文の乱)。晩年,嫡子晴景に家督を譲って後見に当たったが,ついに越後一国を掌握できないまま没した。
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朝日日本歴史人物事典 「長尾為景」の解説

長尾為景

生年:生没年不詳
戦国時代の武将。越後(新潟県)守護代。弾正左衛門尉,信濃守。能景の子,景虎(上杉謙信)の父。永正3(1506)年に越後守護代となる。翌4年に守護上杉房能を滅ぼし,その従兄弟の上杉定実を守護に擁立して自ら実権を握った。同6年には房能の実兄の関東管領上杉顕定に攻められて逃亡するが,翌7年再起して顕定を敗死させ,10年には定実の反抗を抑えて国政を完全に握った。その後は室町幕府との親交を図りつつ,越中に出兵して東端の新川郡を手中に収めた。事実上の国主として戦国大名への道を歩むが,守護定実を廃位せずに自らは守護代にとどまり,また独立性の強い阿賀北の国人衆や上田,古志などの長尾一門の統制は容易に進まなかった。そして享禄3(1530)年に定実の実家の上条定憲を核とする反乱が起こり,いったんは収まったがまもなく反為景方が結集,天文4(1535)年には阿賀北の国人や上田長尾氏が上条方にくみして攻勢に出た。為景は翌5年朝廷の綸旨を得てこれを食い止め,子の晴景に守護代を譲って隠居,争乱の渦中に死去した。没年は天文11年ごろであろう。<参考文献>『新潟県史』通史編2巻

(山田邦明)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長尾為景」の意味・わかりやすい解説

長尾為景
ながおためかげ

[生]?
[没]天文5(1536).12.24. 越中
室町時代の武将。能景の子。景虎 (→上杉謙信 ) の父。幼名は六郎。弾正少弼,信濃守。上杉房能の越後守護代。永正3 (1506) 年父の跡を継ぎ,翌年上杉定実 (守護房能の養子) を擁して挙兵し,房能を東頸城郡松之山に滅ぼして定実を守護とした。続いて同7年上杉顕定を越後長森原に破り,同 16年能登守護畠山義綱の越中侵略に荷担して越中新川郡の守護代職を獲得。天文5 (1536) 年8月家督を子晴景に譲り,越中に侵入したが,栴檀野に戦って敗死。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長尾為景」の解説

長尾為景 ながお-ためかげ

?-1542? 戦国時代の武将。
長尾能景(よしかげ)の子。上杉謙信の父。越後(えちご)(新潟県)守護代。永正(えいしょう)4年(1507)守護上杉房能(ふさよし)を敗死させ,その養子定実(さだざね)を守護とする。さらに房能の兄,関東管領上杉顕定(あきさだ)を攻めほろぼし,一国支配,戦国大名をめざす。晩年は国人衆との抗争をくりかえした。天文(てんぶん)11年ごろ死去したらしい。通称は六郎。

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世界大百科事典(旧版)内の長尾為景の言及

【越後国】より

…上杉房能は,それまであった守護不入についてきびしい詮議を加えて,不入権を否定・制限する方針をうちだして,直接在地を掌握しようと試みた。それは,すでに領主化をとげてみずからが越後支配者の地位を望みはじめていた守護代とするどく対立することとなり,ついに1507年(永正4)守護房能は守護代長尾為景によって滅ぼされ,守護国主化の道はとざされてしまった。といっても守護代がただちに越後国主の地位,すなわち大名化を実現できたのではない。…

【越中国】より

…その間に越中は細川政元方にくみした一向一揆の支配をうけ,一向一揆と協調関係を結んだ神保氏は守護畠山尚順との溝を深め,越後の長尾氏や能登の畠山氏とも対立抗争関係に入った。20年には長尾為景に攻められて神保慶宗,椎名慶胤が滅び,翌年守護畠山尚順は為景を新川郡守護代とした。為景は椎名長常を又守護代として支配にあたったので,越中の東部は長尾氏の勢力圏に入った。…

【春日山城】より

…城の始まりは明らかでないが,元中年間(1384‐92),越後守護代長尾高景が鉢ヶ峯(春日山)城にいて府内館の守護上杉房方をたすけた(《長尾系図》)ことなどから,14世紀半ば過ぎには府内館に属する要害として,存在したことがわかる。春日山城が名実ともに越後の鎮城として重きをなすのは,16世紀初頭の下剋上の大乱〈永正の乱〉で守護を倒し越後の覇者となった長尾為景が,春日山城を本拠としてからである。このとき山上の要害を大いに拡張し,山下に常住の根小屋を営み,商業・交通・文化の中心都市府内と緊密に結ばれた軍営都市が形成されたと思われる。…

【放生津】より

…この間,義材の放生津御座所を越中御所,義材を越中公方と称し,放生津には幕府奉公衆や奉行人,さらに公家衆も多く下向し,また伊勢貞仍(さだより),飛鳥井雅康,宗祇らの文人も来訪,活況を呈した。そののち長誠の子神保慶宗は長尾為景を主力とする越後,越中,能登3ヵ国守護方同盟軍と対戦し,1519年(永正16)放生津は戦乱の被害をうけ,為景の退去とともに復興が図られたが,翌年為景の再攻で慶宗は敗死,放生津の再建も挫折した。しかしやがて湊町としての繁栄を取り戻し,76年(天正4)上杉謙信の越中支配においては放生津で〈楽市座〉が認められている。…

【本間氏】より

…以後史料には85年(弘安8)羽茂(はもち)・木浦郷代官職の本間宣定(《佐渡志》),1344年(興国5∥康永3)石田郷地頭本間兵衛入道(本田寺文書)などの名が見える。室町期には一族が数家に分かれて各地を領有するが,永正期(1504‐21)にいたって長尾為景と結ぶ者も現れた。越中で軍に敗れた長尾為景が佐渡羽茂に逃げ,再興して上杉氏を討ったことが知られている。…

※「長尾為景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」