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長岡半太郎 ながおか はんたろう

美術人名辞典の解説

長岡半太郎

物理学者。長岡忠利の子。長崎県生。東大卒。磁気歪現象の研究で理学博士の学位を得る。独留学を経て東大教授となる。土星型原子模型を発表し、のちのラザフォードボーアの太陽系原子模型の先駆を成した。また鉄鋼・地理物理学の研究等各分野で活躍する。理化学研究所主任研究員・大阪大初代総長・帝国学士院院長等を歴任した。文化勲章受章。昭和25年(1950)歿、85才。

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デジタル大辞泉の解説

ながおか‐はんたろう〔ながをかハンタラウ〕【長岡半太郎】

[1865~1950]物理学者。長崎の生まれ。ドイツでヘルムホルツらに学ぶ。明治36年(1903)土星型原子模型を発表。また地震波の伝播などの研究に業績を残した。阪大総長・学士院長などを歴任。文化勲章受章。

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百科事典マイペディアの解説

長岡半太郎【ながおかはんたろう】

物理学者。長崎県出身。1887年東大物理学科卒業,ドイツに留学し1896年東大教授。1917年理化学研究所創立とともに研究員となり,1931年大阪帝国大学初代総長,1939年帝国学士院長。
→関連項目本多光太郎

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長岡半太郎 ながおか-はんたろう

1865-1950 明治-昭和時代の物理学者。
慶応元年6月28日生まれ。明治29年母校帝国大学の教授となり,のち理化学研究所員をかね,長岡研究室を主宰した。36年土星型原子模型理論を発表。地球物理学,光学などおおくの分野で業績をのこした。昭和6年大阪帝大初代総長,のち学士院長。貴族院議員。12年第1回文化勲章。昭和25年12月11日死去。85歳。肥前大村(長崎県)出身。

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朝日日本歴史人物事典の解説

長岡半太郎

没年:昭和25.12.11(1950)
生年:慶応1.6.28(1865.8.19)
明治から昭和期の物理学者。弟子の養成と研究体制の整備に努力し,日本の物理学の自立と発展に大きく貢献した。長崎港にほど近い(約30km)大村藩の侍屋敷で,治三郎ときくのひとり息子として生まれた。治三郎は,のちに明治新政府の官吏となり岩倉遣外視察団にも参加した。英語で専門教育を受けるための中等教育をおえて,明治20(1887)年帝大理科大学の物理学科を卒業,大学院に進学。卒業研究はスコットランド物理学者C.G.ノットの指導による鉄とニッケルについての磁気的研究。23年に同大の助教授,29年には教授となり,昭和1(1926)年の退官まで約30年間にわたって物理学科の中心的存在であった。明治26年から約3年間,ドイツ,オーストリアに留学。ヘルムホルツ,ボルツマン,プランクらに学び影響を受けた。36年には剛体的な電荷概念にもとづいて土星型原子模型を提案,世界的な物理学の流れに参入した。<参考文献>板倉聖宣・木村東作・八木江里『長岡半太郎伝』

(八木江里)

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世界大百科事典 第2版の解説

ながおかはんたろう【長岡半太郎】

1865‐1950(慶応1‐昭和25)
物理学者。大村藩藩士の子として長崎県大村に生まれる。1874年一家とともに上京,東京英語学校へ入学,父の転勤で一時大阪英語学校へ転校したあと東京大学予備門へ入る。82年に東京大学理学部に入学,C.G.ノットの指導の下で全国地磁気測量に参加,大学院進学後は磁気歪の実験研究を行ったが,これはイギリスのW.トムソン(ケルビン)からも注目を浴びた。90年帝国大学理科大学助教授,93年から3年間ドイツへ留学し,H.L.F.vonヘルムホルツ,L.ボルツマンに師事した。

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大辞林 第三版の解説

ながおかはんたろう【長岡半太郎】

1865~1950) 物理学者。長崎県生まれ。磁気および地球物理学を中心に多くの業績を残す。また、原子構造の問題にも関与し、1903年(明治36)に土星型原子模型を発表。大阪大学初代総長・学士院院長を歴任。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

長岡半太郎
ながおかはんたろう

[生]慶応1(1865).8.15. 長崎
[没]1950.12.11. 東京
物理学者。東京帝国大学物理学科を卒業 (1887) 。ドイツへ留学 (93) 。帰国後同大学教授 (96) 。理化学研究所員 (1917) 。地震研究所員 (25) 。大阪帝国大学初代総長 (31~34) 。帝国学士院院長 (39) 。磁歪の研究 (1888) ,岩石の弾性率測定 (1900) ,重力の測定 (02) ,土星状の原子模型の提唱 (03) ,原子スペクトルの分光学的研究,特にその微細構造の研究,光の回折理論,電磁誘導の計算,楕円関数表の作成など,実験物理学と理論物理学の両面にわたって活動し,日本の物理学の地盤を固めた。核をもつ原子模型は E.ラザフォードの研究の先達となった。 1937年に第1回の文化勲章を受章

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

長岡半太郎
ながおかはんたろう
(1865―1950)

物理学者。肥前国(長崎県)大村藩士長岡治三郎(じさぶろう)(1839―1891)のひとり息子。半太郎の半は祖父中尾半兵衛にちなむ。1874年(明治7)一家で上京。東京英語学校、官立大阪英語学校を経て、1882年東京大学理学部入学、1887年卒業、大学院に進む。1890年帝国大学理科大学助教授。1892年箕作麟祥(みつくりりんしょう)の三女操子(みさこ)と結婚。1893年磁気ひずみ現象の研究で理学博士、同年ドイツに留学、ヘルムホルツ、プランク、クントらに学び、ボルツマンの講義を聞く。1896年帰国し帝国大学教授(~1926)。1917年(大正6)理化学研究所物理部長兼任、1931年(昭和6)大阪帝大初代総長(~1934)、1934年貴族院議員、1937年第1回文化勲章受章、1939年帝国学士院院長(~1948)、1944年技術院参与。
 1903年土星型原子核模型を発表、ラザフォードの有核模型の先駆となる。分光学や原子構造の研究、鉄鋼、地球物理学など多分野で活躍し、日本の物理学の水準を国際的な高さに引き上げた。1924年水銀還金実験の「成功」を発表、話題をよんだ。1939年12月14日付けノートにノーベル委員会あてで「湯川を推薦する手紙を起草す」とあるという。1943年の湯川秀樹(ひでき)の文化勲章は彼の推薦による。最初の門下に本多光太郎がおり、物理学者嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)(1905―1969)は長岡の五男。哲学者朝永三十郎(ともながさんじゅうろう)とは同郷で、遠縁にあたる。[井原 聰]
『板倉聖宣・木村東作・八木江里著『長岡半太郎伝』(1973・朝日新聞社)』

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世界大百科事典内の長岡半太郎の言及

【原子】より

…J.J.トムソンは1903年に,球状に分布した正電荷の中で,電子が一つの円周上に等間隔に並んで回転しているという原子模型を提出した。これに対し同年,長岡半太郎は,電子が正電荷の外で土星の輪のようになって回っているという原子模型を提出した。その後11年,E.ラザフォードは,α線が金属箔で散乱される際に非常に大きく方向の変わるものがあることに注目した。…

※「長岡半太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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