長沼城跡(読み)ながぬまじようあと

日本歴史地名大系 「長沼城跡」の解説

長沼城跡
ながぬまじようあと

[現在地名]長沼町長沼

千代ちよ城・うしが城ともいう。長沼集落の北部の丘陵、標高三七六メートルの山頂と中腹に中枢部を置き、山麓平地をも組合せた平山城。比高三九メートル、南と北は急斜面、西は山陵が空堀で分断されている。本丸はほぼ台形、西・北・南側一部に石塁が残る。二の丸は本丸の西面に張出し、本丸石塁上より六メートル低く台形。本丸および二の丸の南下と北下に帯郭が付属する。西部方面を展望するための西櫓が二の丸の南西にあった。西三の丸の西側は空堀が山陵を分断している。東三の丸は本丸より一二メートル低い。北が大手、南が搦手であるが、城南城東・城北には水堀が囲繞し、城東では内堀外堀遺構が四重に構築されていたのが確認できる。

天文一四年(一五四五)築城で、城主は新国頼基と伝える(「長沼名義考」など)。「異本塔寺長帳」によれば永禄八年(一五六五)蘆名盛氏が「仙道長沼城代須田氏」を攻めたが撤退。

長沼城跡
ながぬまじようあと

[現在地名]長野市長沼 穂保

千曲川左岸の平城。東は千曲川が流れて自然の要害をなし、西は湿田が広がる。南北に千曲川の自然堤防が続く。「千曲之真砂」に収めた長沼古城之図には、南北に長く、東中央に本丸、北に大枡形、西に二の丸、南に三の丸が本丸を囲み、その周りを水堀がめぐり、本丸の北・西・南を内堀がめぐる。北を大手、南を搦手とし、各々に丸馬出しを設け、城の東に馬場、西に侍屋敷を設けて城下町をなしていた。

築城について、同書に、永禄一一年(一五六八)武田信玄が馬場信房に築かせ、原与左衛門・市川梅印に守らせたと記す。

長沼城跡
ながぬまじようあと

[現在地名]成田市長沼

しろうちにある中世の城跡。周辺が低湿地で城跡だけが独立丘陵となっていることから、「下総国旧事考」には「長沼村ニアリ、此村ハ平地ナレド、城址ノミ突然ト小邱ヲナセリ」と記される。城主は千葉一族の長沼武俊とされるが、同氏は結城朝良の後裔ともいわれる。城跡は単郭で、東西約一〇〇メートル・南北約五〇メートル、周囲を幅一・五メートル、高さ一メートル平均の土塁が囲む。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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