長源寺(読み)ちようげんじ

日本歴史地名大系 「長源寺」の解説

長源寺
ちようげんじ

[現在地名]小浜市酒井

向嶋山と号し、日蓮宗本尊釈迦如来縁起によると、康暦二年(一三八〇)日源の創建で、当初は富田とみた(現小浜市)北東部、後瀬のちせ山西麓の現空印くいん寺の地にあったが、大永二年(一五二二)若狭守護武田元光が後瀬山に築城し、当寺の地を居館とするため現在地へ移転したという。戦国期には東勢井ひがしせい村に集中して寺領があった。天文二年(一五三三)一二月一四日には守護武田氏被官粟屋元隆禁制を出し(当寺文書)、元亀元年(一五七〇)には山県秀政によって掟書が定められた(同年一二月吉日「山県秀政掟書」同文書)。さらに同二年一〇月七日朝倉義景は、当寺の地子銭を安堵する代わりに祈願所として満山で毎月祈祷すべきことを命じている(「朝倉義景判物」同文書)


長源寺
ちようげんじ

[現在地名]山形市七日町三丁目

江戸時代城下町であった七日なぬか町にある。淵室山と号し、曹洞宗。本尊は運慶作と伝える釈迦如来。山形城下禅宗四ヵ寺の一。慶長五年(一六〇〇)伏見ふしみ(現京都市伏見区)で戦死した山形藩主鳥居忠政の父元忠の菩提を弔うため、関ヶ原の合戦後徳川家康が忠政の領地陸奥たいら(現福島県いわき市)に一寺を建立し、寺領一〇〇石を寄進したのに始まると伝える。


長源寺
ちようげんじ

[現在地名]静岡市丸子

赤目あかめ、国道一号の南に位置する臨済宗妙心寺派寺院。霊泉山と号し、本尊は釈迦如来。もと大仙だいせん庵といい誓願せいがん寺の末庵であったが、寛保二年(一七四二)拙巧が京都妙心寺の末寺とした(修訂駿河国新風土記)。境内に江戸時代の国学者野沢昌樹の墓がある。墓碑によると享保七年(一七二二)甲斐国巨摩こま篠原しのばら(現山梨県竜王町)に生れ、弟は明和事件で知られる山県大弐。若くして医術を学び、神祇伯白川氏から皇国の道を学んで国学にも精通した。明和三年(一七六六)の明和事件により、当寺の甲斐出身住職梅岳を頼って移住。


長源寺
ちようげんじ

[現在地名]堺市西湊町二丁

日蓮宗。永松山と号し、本尊は十界大曼荼羅。天文一三年(一五四四)日祝の開基といい、細川氏綱が日祝に帰依、伽藍を建立させたという(「堺南北寺庵本末開基宗旨改帳」覚応寺文書)。当初は堺北さかいきた庄にあり、頂源寺と書いたというが現在地への移転、改字の時期は不詳。天正七年(一五七九)安土宗論での日蓮宗側の代表の一人京都頂妙ちようみよう寺三世日は、当寺二世日沾に師事して得度した人で、永禄元年(一五五八)当寺本堂・三十番神堂を再建した(日筆行功部分記など)


長源寺
ちようげんじ

[現在地名]飯田市箕瀬町

箕瀬みのぜの西端に位置。日蓮宗、田島山と号す。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、貞和四年(一三四八)足利尊氏の叔父にあたる日静によって島田しまだ村に創立された。

慶長六年(一六〇一)朝日受永より寺領三石の寄進があり、同一四年飯田藩主小笠原秀政が境内五千二一八坪を寄進し、島田村から現在地に移転した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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