長田新(読み)オサダアラタ

デジタル大辞泉 「長田新」の意味・読み・例文・類語

おさだ‐あらた〔をさだ‐〕【長田新】

[1887~1961]教育学者。長野の生まれ。広島文理大学長。日本教育学会創設ペスタロッチ研究に業績を残す。被爆した広島の子供手記原爆の子」を編集し、平和運動献身。著「ペスタロッチ伝」「教育哲学」など。

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精選版 日本国語大辞典 「長田新」の意味・読み・例文・類語

おさだ‐あらた【長田新】

  1. 教育学者。長野県出身。京都帝大哲学科卒。広島文理大学長。日本教育学会会長。日本における教育哲学の基礎を確立。スイス政府からのペスタロッチ賞を受賞。著に「現代教育哲学の根本問題」「ペスタロッチ伝」、編著に「原爆の子」など。明治二〇~昭和三六年(一八八七‐一九六一

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長田新」の意味・わかりやすい解説

長田新
おさだあらた
(1887―1961)

教育学者。長野県に生まれる。1910年(明治43)広島高等師範学校卒業。1915年(大正4)京都帝国大学哲学科卒業後、沢柳政太郎(さわやなぎまさたろう)のもとで新教育運動に参加し、教育の実証的実験研究を行う。その後、広島高等師範学校教授を経て、広島文理科大学教授、同学長となる。教育哲学、新教育の研究のなかからペスタロッチ研究を開始し、数多くの業績を残した。1941年(昭和16)スイス政府からペスタロッチ賞を授与される。戦後は、日本教育学会会長、日本学術会議会員を務めるかたわら、広島の被爆体験から文集『原爆の子』を編集し、「日本子どもを守る会」会長に任ずるなど、平和運動に貢献した。主著に『教育学』(1933)、『ペスタロッチー伝』上下(1952)がある。

[三原芳一]

『『教育学研究 長田新博士追悼特集』第28巻第2号(1961・日本教育学会)』

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20世紀日本人名事典 「長田新」の解説

長田 新
オサダ アラタ

大正・昭和期の教育学者,教育家 広島文理科大学学長。



生年
明治20(1887)年2月1日

没年
昭和36(1961)年4月18日

出生地
長野県

学歴〔年〕
広島高等師範学校英語科〔明治43年〕卒,京都帝大文学部哲学科〔大正4年〕卒

主な受賞名〔年〕
ペスタロッチ賞〔昭和16年〕,チューリヒ大学名誉哲学博士号〔昭和35年〕

経歴
明治43年大分師範に勤めた後、京大に入り、沢柳政太郎の助手を経て、大正7年広島高師講師、8年教授。昭和3年ドイツ留学、4年帰国して広島文理大助教授、翌年教授。その間「ペスタロッチ教育学」「ペスタロッチ伝」(全5巻)を刊行した。16年スイス政府からペスタロッチ賞が贈られた。20年広島文理大学長及び広島高師校長。広島原爆で被災、26年被爆少年少女の体験作文を編集した「原爆の子」を刊行。新藤兼人が映画化し、また英訳もされた。日本子どもを守る会初代会長も務め、平和運動に力を尽くす。日本教育学会初代会長。23年日本学術会議会員。28年広島大学退官。

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改訂新版 世界大百科事典 「長田新」の意味・わかりやすい解説

長田新 (おさだあらた)
生没年:1887-1961(明治20-昭和36)

教育学者。長野県生れ。京都帝大哲学科卒業。カント批判哲学,ペスタロッチ研究を基礎に自発性と知育重視の教育学を説く。《原爆の子》(1951)の編著,日本子どもを守る会会長(1952-61)としての仕事には,教育による社会改造という理想主義的な社会思想がみられる。官房学ふうの教育学を排し,沢柳政太郎の私立成城小学校成城学園)の創立に参加。その後,広島文理科大学教授,同学長を務める。長田の教育学は,日本の教育学が国家と外国学説への依存をやめ自立し始める時期を代表している。著書《ペスタロッチー伝》2巻(1951-52),《ペスタロッチー全集》12巻の翻訳編集等がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「長田新」の意味・わかりやすい解説

長田新【おさだあらた】

教育学者。長野県生れ。広島高等師範(現,広島大学),京大卒。広島文理科大学等で教え,教育哲学を体系化し,ペスタロッチ研究に専念。1941年日本教育学会を結成。大正期や戦後の新教育運動にも尽力,沢柳政太郎の私立成城小学校(成城学園)の創立に参加した。また《原爆の子》を編集し平和運動を推進した。主著《教育学》《ペスタロッチー伝》。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長田新」の意味・わかりやすい解説

長田新
おさだあらた

[生]1887.2.1.
[没]1961.4.18.
教育学者。長野県立諏訪中学校を経て広島高等師範学校を卒業。師範学校教諭となるが,1912年,京都大学に入学。沢柳政太郎に師事する。卒業後沢柳を助け,成城小学校の創設に参画。大正期の新教育運動の一翼をになった。その後,広島大学での教育学研究の指導者になるとともに,日本教育学会の初代会長もつとめた。スイス政府からペスタロッチ賞を贈られるなど,ペスタロッチ研究では世界的権威とされる。教育哲学の体系化,平和教育の推進にも寄与した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長田新」の解説

長田新 おさだ-あらた

1887-1961 大正-昭和時代の教育学者。
明治20年2月1日生まれ。広島高師教授をへて,昭和5年広島文理大教授,20年学長。スイスのペスタロッチを研究し,伝記や全集を翻訳。戦後は平和運動に尽力,「原爆の子」を編集し日本子どもを守る会を結成。日本教育学会会長。昭和36年4月18日死去。74歳。長野県出身。京都帝大卒。著作に「教育学」「ペスタロッチー伝」など。

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367日誕生日大事典 「長田新」の解説

長田 新 (おさだ あらた)

生年月日:1887年2月1日
大正時代;昭和時代の教育学者;教育家。広島文理科大学学長
1961年没

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世界大百科事典(旧版)内の長田新の言及

【日本子どもを守る会】より

…横須賀市で始まった卑猥な観光宣伝レコード《タマラン節》の販売中止運動をきっかけとして,1952年5月に結成された。当時,各地の米軍基地周辺の町では,いわゆる〈特飲街〉の隆盛とともに子どもの性非行の増加など教育環境の悪化が心配されていたが,暗い世相と社会悪から子どもたちを守り,紙芝居の内容改善,体罰の禁止,小児結核の予防など,健全な児童文化の創造と普及のために,父母,教師,市民団体,婦人団体,文化団体,教員組合がこの会の結成に参加した(初代会長は長田新)。以来,〈子どもを守る会〉の通称で,児童憲章の完全実施,憲法擁護と戦争反対,〈子どもの幸福をはばんでいる悪い環境と条件〉の除去,〈子どもが自分たちで強く正しく明るくのびてゆく力〉の育成などを基本目標に,毎年全国各地で〈子どもを守る文化会議〉の開催や調査研究,相談所活動も行っているほか,月刊雑誌《子どものしあわせ》の発行,《子ども白書》の作成などの活動をつづけている。…

【平和教育】より

…これをうけて日教組は51年〈教え子を再び戦場に送るな〉をスローガンとしてかかげ,教育研究運動を出発させた。また教育学者の長田新は作文集《原爆の子》(1951)を編み,平和への強い意志を抱く子どもの育成こそ,教師・父母にとって最高の課題であると訴え,国際的にも大きな反響を呼んだ。さらに国内では,父母などから戦争体験をきく運動が広がった。…

【ペスタロッチ】より

…日本には明治初期に伊沢修二らによりアメリカ経由でペスタロッチ主義の理論が導入され,開発主義の名のもとに一時流行した。その後ヘルバルト主義の運動が盛んになるや下火になったが,大正期に入り長田新や福島政雄(1889‐1976)らを中心に本格的なペスタロッチ研究が始まり,現在に至っている。【平野 正久】。…

※「長田新」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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