横道村(読み)よこみちむら

日本歴史地名大系 「横道村」の解説

横道村
よこみちむら

[現在地名]日原町左鐙さぶみ

左鐙村から横道川に沿って東に入った山村。つばくろ岳・安蔵寺あぞうじ山、香仙原こうせんばら(標高一〇五六メートル)を境に、東に匹見ひきみ(現匹見町)、南に上高尻かみたかじり(現六日市町)奥木部谷おくきべだに(現柿木村)と接している。津和野からの道は左鐙から当村に入り、七村ななむら峠を越えて匹見へ至る。集落は奥谷おくだに高嶺こうれい芦谷あしだに畳ヶ原たたんばだけ・上横道・福谷ふくたに猪木谷いのきだに・下横道・中内谷なかうつだに牛首うしくびにある。慶長七年(一六〇二)の検地高五一石余(「亀井家領郷村高帳」日原町史)。寛永一四年(一六三七)の高六一石余、田五町余・畑一一町余(「検地帳」同書)。明治四年(一八七一)の総高一一八石余・反別二九町余、家数三七(本百姓一九・下作一七・寺内一)・人数二〇二、牛二四、大元おおもと社、鎮蔵ちんぞう寺、米蔵一、御立山六(芦谷山・高嶺山・猪退谷山・中内谷山・本谷山・波見谷山)、鉄砲一九、紙漉舟一九(万手鑑)


横道村
よこみちむら

[現在地名]船引町横道

上宇津志かみうつし村の枝村で、竜子たつご山と鎌倉かまくら岳に挟まれた山村。うつし川の源流地域である。中世は田村庄のうち。天正一四年(一五八六)一〇月一三日の熊野山新宮年貢帳(青山文書)に「三段 二百五十 よこ道」とみえ、紀州熊野新宮に年貢を納めている。寛永一一年(一六三四)の年貢割付状(石井家文書)に「横道村定請」とみえ、高一八六石余、免三ツ七分、取米六八石余。正保二年(一六四五)の在々屋敷数家数并人数(三春町史)には村名がみえず、上宇津志村のうちに含まれている。元禄三年(一六九〇)の年貢割付状(石井家文書)は横道村(七八石余)遠中山とおなかやま(一〇七石余)にそれぞれ出されており、当村からさらに遠中山村が分離されて年貢が割付けられている。


横道村
よこみちむら

[現在地名]温泉津町井田いだ大字福田ふくだ

殿との村・福田村の東に位置する。中世には大家おおえ西にし郷に含まれた。鎌倉時代大家庄を領した福屋(御神本)氏の庶流の横道氏が当地を領有していたと思われる(「御神本系図」続群書類従)。しかし南北朝期に邑智おおち川本かわもと(現川本町)から小笠原氏が進出し(応永一六年九月三日「源長宣寄進状」甘南備寺文書)、当地辺りを領有したと推測される。天文一一年(一五四二)一一月二八日の小笠原長徳書下状(森木家旧蔵文書)に、小笠原氏家臣として横道出羽守・同藤左衛門尉がみえ、長徳から横道氏の所領田窪たくぼ(現川本町)の段銭について命じられており、小笠原氏に臣従していた。天正一三年(一五八五)の小笠原長旌所領目録(島根県史)に「拾三町二反半三十歩 横道村」とみえ、同一九年小笠原氏が出雲国へ転封されるまで同氏領であったと思われる。


横道村
よこみちむら

[現在地名]中条町横道

胎内たいない川右岸の微高地にあり、北は平木田ひらきだ村、南東は下江端しもえばた(現黒川村)に接する。元和五年(一六一九)の堀直寄知行宛行目録(川手政之進氏蔵)に「黒川与横道村」とみえ四四七石二斗九升が堀定右衛門へ宛行われている。初め村上藩領、正徳二年(一七一二)旗本松平領となる。元和六年一〇月の免相状(馬場修氏蔵)によれば、前年の本免は八五石五斗二升九合、うち四石一斗一升五合は元和六年の水押、九石は「ふんまい田引」と日焼田で、同年の定納は七二石四斗一升四合。万治二年(一六五九)検地帳(横道区有文書)では高三〇〇石四斗余、本田二二町二反二畝余・新田一町三反八畝余・畑八町九反七畝余・屋敷一町二反八畝余で、名請人一四名が記される。


横道村
よこみちむら

[現在地名]滑川市横道

早月はやつき川が形成した新扇状地の扇央部に位置し、西は栃山中新とちやまなかしん村、南西は小寺又新こでらまたしん村。村名の由来は康治元年(一一四二)一〇月日の宮道季式寄進状(祇園社記)新川にいかわ郡内の堀江ほりえ村・小泉こいずみ村などの四至の内の東を限る「横路」にちなむとする説、かつて滑川へ出る横道があったと伝えられることによるという説があるが、いずれも定かではない。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高二二八石、免三ツ、明暦二年(一六五六)の新田高一〇石(三箇国高物成帳)。所属組は平塚ひらつか村と同じ。


横道村
よこみちむら

[現在地名]朝日町横道

黒部川右岸の河岸段丘の末端部に位置し、北東は横水よこみず村、南東は藤塚ふじづか村、北西は高橋たかはし村、南西は野新のしん村。舟見野ふなみの一六ヵ村の一つで、寛文三年(一六六三)の仮御印では草高一七二石余、免二ツ(三箇国高物成帳)


横道村
よこみちむら

[現在地名]土佐清水市横道

奥猿野おくましの村の東方、足摺あしずり半島の基部中央にある山間の村で、加久見かぐみ川の源流にある。奥猿野村の枝郷。

天正一七年(一五八九)の横道之村地検帳によれば検地面積四町七反余、屋敷数五、うち居屋敷三。ほとんどは中野官兵衛の給地。ホノギに「ユウマ井」がみえる。江戸時代には元禄郷帳によると本田高四九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android