幕末の老中。越前鯖江藩主。1814年(文化11)藩主となり下総守と称した。寺社奉行,大坂城代を経て,38年(天保9)京都所司代,40年西丸老中となり,43年辞職。日米修好通商条約調印直後の58年(安政5)6月,罷免された堀田正睦,松平忠固に代わって大老井伊直弼に老中に登用された。条約調印の事情を上奏するために,9月京へ上って長野主膳と連絡をとり,京都所司代酒井忠義を指揮して尊王攘夷派の公卿の家臣や諸藩の志士の逮捕を行った(安政の大獄)。この弾圧を背景に,10月徳川家茂の将軍宣下の勅を得,12月には幕府がやむをえず条約に調印した事情は了解するという内容の勅書を受けることができた。一応,目的を達した詮勝は59年3月江戸へ帰ったが,この間に直弼と意見の食い違いが生じたことが原因で,12月に老中を辞した。62年(文久2)在任中の追罰を受けて領地1万石を召し上げられ,隠居急度慎を命ぜられたが,65年(慶応1)謹慎は解かれた。
執筆者:小野 正雄
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幕末の老中、第7代越前国鯖江(さばえ)藩主。第5代藩主間部詮煕(まなべあきひろ)の三男。間部氏。通称は下総守(しもうさのかみ)。1814年(文化11)藩主となる。以後、奏者番、大坂城代、京都所司代に進み侍従に任じられた。1840年(天保11)西丸老中となったが、1843年老中首座水野忠邦との意見不一致により解任された。1858年(安政5)大老井伊直弼(いいなおすけ)の下で老中となり、日米修好通商条約調印の事情説明の上使として上洛、京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとり、調印のやむをえざる事情は認めるとの勅書を得て、翌年3月江戸へ戻る。その後、直弼と不和となり12月に免職。尊王攘夷(そんのうじょうい)運動が盛んとなった1862年(文久2)11月、在職中に不都合の処置をなしたとの理由で隠居、急度慎(きっとつつしみ)を命ぜられた。1865年(慶応元)謹慎を解かれ剃髪(ていはつ)して松堂と号した。
[小野正雄]
『間部家文書刊行会編『間部家文書4』(1986・鯖江市役所)』
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1804.2.19~84.11.28
幕末期の老中。越前国鯖江藩主。父は5代詮熙(あきひろ)。下総守。1814年(文化11)遺領相続。26年(文政9)の奏者番就任以来,寺社奉行・大坂城代・京都所司代を勤め,40年(天保11)西丸老中。43年辞任。58年(安政5)井伊直弼(なおすけ)の大老就任直後,老中就任。勝手掛兼外国掛。同年日米修好通商条約調印の事情説明のため上洛し,尊攘派を弾圧(安政の大獄)。翌年老中辞任。62年(文久2)隠居・謹慎。維新直後,新政府から2カ月の謹慎を命じられた。
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