関宗祐(読み)せきむねすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「関宗祐」の意味・わかりやすい解説

関宗祐
せきむねすけ
(?―1343)

南北朝時代武将常陸(ひたち)国関郡関城(茨城県筑西(ちくせい)市)城主。1247年(宝治1)宝治(ほうじ)合戦で滅亡した関郡地頭(じとう)関氏の一族の子孫とみられるが確証はない。建武(けんむ)政府のもとで関郡の支配権をめぐり下総(しもうさ)の結城(ゆうき)氏と対立。結城氏が足利尊氏(あしかがたかうじ)に応じると、以来一貫して南朝方に属し、1336年(延元1・建武3)結城郡(茨城県結城市)に進攻して桃井(もものい)、小山(おやま)、結城氏らと戦い、翌年には石堂(いしどう)、相馬(そうま)氏らと鬼怒(きぬ)川上瀬中沼瀬戸(かみせなかぬませと)に戦った。41年(興国2・暦応4)11月には小田城から北畠親房(きたばたけちかふさ)を関城に迎え、大宝(だいほう)城(茨城県下妻(しもつま)市)の下妻政泰(まさやす)らと結んで高師冬(こうのもろふゆ)の攻囲に耐えた。しかし43年(興国4・康永2)11月についに落城。親房は脱出したが、宗祐父子は戦死した。

[市村高男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「関宗祐」の意味・わかりやすい解説

関宗祐
せきむねすけ

[生]? 常陸
[没]興国4=康永2(1343).11.11. 常陸
南北朝時代,南朝方の武将。常陸国真壁郡関城主。政祐の子。終始南朝方として戦い,特に延元3=暦応1 (1338) 年,南朝回天の策を立て,伊勢から海路を経て常陸国に到着した北畠親房を小田城に迎えて以来,興国4=康永2 (43) 年,関城が北朝方高師冬攻撃にあって落城するまで終始親房を助けた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「関宗祐」の解説

関宗祐 せき-むねすけ

?-1343 南北朝時代の武将。
常陸(ひたち)(茨城県)関城主。南朝方に属し,佐竹・結城(ゆうき)氏ら北朝方とたたかう。暦応(りゃくおう)4=興国2年北畠親房(ちかふさ)を関城にむかえ,大宝(だいほう)城主下妻政泰(まさやす)とともに関東南朝方の拠点をまもったが,高師冬(こうの-もろふゆ)に攻められ両城とも陥落,康永2=興国4年11月12日戦死した。

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朝日日本歴史人物事典 「関宗祐」の解説

関宗祐

没年:康永1/興国3.11.11(1342.12.9)
生年:生年不詳
南北朝時代の武将。宝治1(1247)年三浦氏が北条時頼によって滅ぼされた際,三浦氏に味方し没落した関氏の子孫。政祐の子。建武政権下で常陸関郡の回復を期すが,足利氏の介入により結城氏がこれを獲得。動乱勃発後は南朝方に望みを託し,関城に籠城して足利方と戦い戦死した。<参考文献>『関城町史』通史編上

(市村高男)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の関宗祐の言及

【関城[町]】より

…関城は関氏一族の本拠地と伝えられる。南北朝時代,南朝方の拠点となり,1341年(興国2∥暦応4)11月城主関宗祐が北畠親房を小田城から迎え入れてからは,南朝方の政治・軍事上の中心となった。隣接の大宝城ともども,以後2年間にわたり激しい攻防戦が行われた。…

※「関宗祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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