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南北朝時代の武将。師直の従兄弟,猶子。鎌倉府執事。三河守を経て播磨守。武蔵,伊賀守護。1339年(延元4・暦応2)鎌倉府の幼主足利義詮の執事として下向。翌年には幕府の二頭政治を反映して,師冬(足利尊氏・高師直派)と上杉憲顕(足利直義派)との2人の執事が誕生したが,権限の上では師冬がまさっていたらしい。執事在任中の師冬の軍事行動もめざましく,41年小田城,43年に関・大宝城を落として,常陸南朝軍を潰滅させた。師冬がこののち上洛していることは,45年尊氏・直義の天竜寺参詣に随従した事実からも知られる。49年(正平4・貞和5)足利基氏が鎌倉の新主となると,師冬は翌年その執事として再任されたが,幕府の内訌をそのまま反映する形で,他方の執事憲顕と抗争した。しかし師冬は敗れて甲斐須沢城にて自害。ちなみに師冬の発給文書では,執事奉書を中心として書下,書状,軍忠(着到)状証判など現在約40通を得る。
執筆者:森 茂暁
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南北朝時代の武将。師行(もろゆき)の子。師直(もろなお)の従兄弟(いとこ)。師直の猶子(ゆうし)となり足利(あしかが)政権の将として活躍。1339年(延元4・暦応2)には上杉憲顕(のりあき)の後を受けて関東管領(かんれい)として鎌倉公方(くぼう)足利義詮(よしあきら)を補佐し、北畠親房(きたばたけちかふさ)を中心とする常陸(ひたち)の南軍の征圧に功をたてた。その後、幕命で上洛(じょうらく)したが、49年(正平4・貞和5)上杉憲顕とともにふたたび関東管領となり、翌年正月鎌倉に下向した。しかし、足利直義(ただよし)派の憲顕と対立。同年末憲顕を討とうとして公方足利基氏(もとうじ)を擁して鎌倉を発向、途中基氏を奪われ、師冬は甲斐(かい)に走ったが憲顕らに攻められ、翌年正月17日、甲斐須沢(すさわ)城(山梨県南アルプス市大嵐)を攻略され、師冬は自刃した。
[池永二郎]
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