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高師冬 こうのもろふゆ

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

高師冬
こうのもろふゆ

[生]?
[没]正平6=観応2(1351).1.17. 甲斐
南北朝時代の武将。師直の従兄弟。延元1=建武3 (1336) 年,南朝方の北畠親房勢力を張る常陸を攻略するため出京し,興国2=暦応4 (41) 年に小田城を,興国4=康永2 (43) 年には関,大宝の両城を落し,常陸を平定した。

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百科事典マイペディアの解説

高師冬【こうのもろふゆ】

南北朝時代の武将。高師直(こうのもろなお)の従兄弟,猶子。三河守・播磨守,武蔵・伊賀守護を歴任。1339年鎌倉府足利義詮(よしあきら)の執事(しつじ)として下向,翌年からは上杉憲顕(のりあき)と2人で執事を務めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

高師冬 こうの-もろふゆ

?-1351 南北朝時代の武将。
従兄(いとこ)高師直(もろなお)の養子となり,室町幕府の武将として各地を転戦する。貞和(じょうわ)5=正平(しょうへい)4年(1349)関東管領となり,鎌倉公方(くぼう)足利基氏(もとうじ)を補佐。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)のなか,もうひとりの関東管領で足利直義(ただよし)派の上杉憲顕(のりあき)と対立,観応2=正平6年1月17日敗れて自刃(じじん)した。通称は四郎左衛門尉。

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世界大百科事典 第2版の解説

こうのもろふゆ【高師冬】

?‐1351(正平6∥観応2)
南北朝時代の武将。師直の従兄弟,猶子。鎌倉府執事。三河守を経て播磨守。武蔵,伊賀守護。1339年(延元4∥暦応2)鎌倉府の幼主足利義詮の執事として下向。翌年には幕府の二頭政治を反映して,師冬(足利尊氏・高師直派)と上杉憲顕(足利直義派)との2人の執事が誕生したが,権限の上では師冬がまさっていたらしい。執事在任中の師冬の軍事行動もめざましく,41年小田城,43年に関・大宝城を落として,常陸南朝軍を潰滅させた。

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大辞林 第三版の解説

こうのもろふゆ【高師冬】

?~1351) 南北朝時代の武将。師直の従弟、のち養子。鎌倉公方足利基氏の執事。上杉憲顕と対立、諏訪一族に攻められ自害。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

高師冬
こうのもろふゆ
(?―1351)

南北朝時代の武将。師行(もろゆき)の子。師直(もろなお)の従兄弟(いとこ)。師直の猶子(ゆうし)となり足利(あしかが)政権の将として活躍。1339年(延元4・暦応2)には上杉憲顕(のりあき)の後を受けて関東管領(かんれい)として鎌倉公方(くぼう)足利義詮(よしあきら)を補佐し、北畠親房(きたばたけちかふさ)を中心とする常陸(ひたち)の南軍の征圧に功をたてた。その後、幕命で上洛(じょうらく)したが、49年(正平4・貞和5)上杉憲顕とともにふたたび関東管領となり、翌年正月鎌倉に下向した。しかし、足利直義(ただよし)派の憲顕と対立。同年末憲顕を討とうとして公方足利基氏(もとうじ)を擁して鎌倉を発向、途中基氏を奪われ、師冬は甲斐(かい)に走ったが憲顕らに攻められ、翌年正月17日、甲斐須沢(すさわ)城(山梨県南アルプス市大嵐)を攻略され、師冬は自刃した。[池永二郎]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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