関本村(読み)せきもとむら

日本歴史地名大系 「関本村」の解説

関本村
せきもとむら

[現在地名]南足柄市関本・大雄だいゆう

東・北境を貝沢かいざわ川が流れ、西は雨坪あまつぼ村・福泉ふくせん村・猿山さるやま村、南は飯沢いいざわ村・狩野かの村と接し、甲州道・矢倉沢やぐらさわ往還が村央を東南から西北へ通る。「古事記」景行記にみえる「足柄の坂本」、古代駅家の「坂本」は当地に比定され、中世においても「吾妻鏡」建久元年(一一九〇)一〇月五日条に「関本辺」で源頼朝が奥州の地頭所務の沙汰をしている。

近世は小田原藩領。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳記載の石高五六〇石余に対して、天保郷帳では六五八石余に増加している。万治二年(一六五九)の検地帳写(区有文書)によれば、田四二町八反余、畑八町余、山畑三〇町五反余。甲州道・矢倉沢往還の宿駅として人馬の継立などを負担し、諸役として柿渋一斗五升を納めた(宝永五年「村明細帳」区有文書)


関本村
せきもとむら

[現在地名]関城町関本 かみ上中かみなかなか分中わけなか肥土あくとしも

鬼怒きぬ川左岸にあり、北は船玉ふなだま村。新治にいはり西郡南条なんじよう(関郡)の中心地で、古代には常陸国の最西端の要地として新治関が設置されたと伝えられる。鎌倉時代に関郡地頭となった関氏は当村に本拠を構えたと想定され、村内の弥陀堂みだどう墓地にある五輪塔(高さ一七五センチ)は、古い時代の様式を伝えており、関氏との関係を推定させる。南北朝時代以降は結城氏の支配に属し、慶長六年(一六〇一)結城秀康の越前転封以降は天領、寛永一〇年(一六三三)から古河藩領、万治元年―延宝五年(一六五八―七七)下総大輪藩領となった(寛政重修諸家譜、寛文朱印留)

村高四千五〇〇石余の大村であったが、元禄期(一六八八―一七〇四)に上町一千五九五石余、中町二千九一九石余に二分され(元禄郷帳)、同一六年正月には、上町のうち一千二三三石余、中町の三八三石余(のちの上中町)が結城藩主水野勝長に与えられている(「水野隠岐守宛領知目録」水野家文書)


関本村
せきもとむら

[現在地名]常葉町関本

常葉町の南、大平たいへい(六六〇・二メートル)西境とする山峡の小村。村内を大滝根おおたきね川が北流する。村名は字小関こせきの小関用水の堰元によるとみられる。縄文時代中期・後期の石斧・石鏃土器および古墳時代の土師器を出土するむかいうち上野うえの日役畑ひやくはたの遺跡がある。字上野の関本城跡には郭・帯郭の遺構があり、慶安二年(一六四九)の三春領古城絵図(三春町史)には「城主関本太郎右衛門 根廻り弐百三十間 高六間」、本丸は「三十四間 十弐間」「山ヘ二丁」とあり、南麓に在家を配する。


関本村
せきもとむら

[現在地名]田島町関本

川島かわしま村の西に位置し、南境を穴沢あなざわ川、北西境を荒海あらかい川が流れる。下野街道は川島村南端で大きく西に迂回し、当村の西境を通り、穴沢川を渡って馬場原ばばがはら森前もりのまえの段丘上の縁を通り糸沢いとざわ村端村今泉いまいずみに至る。中世の古道は、段丘下を回って荒海川を渡り糸沢村端村古内ふるうちに通じていたという。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「本関本」とみえ、高二九二石余。南山御蔵入領川島組に属する。


関本村
せきもとむら

[現在地名]奈義町関本

高円こうえん村の東に位置。黒尾くろお峠越の因幡往来が通り、宿場的機能を有していた。「東作誌」によれば寛永六年(一六二九)高円村より分村したというが、正保三年(一六四六)ともいう(明治一三年「郡村地誌取調書」大岡文書)。天文八年(一五三九)一二月吉日の檀那引付(肥塚家文書)に「せきもとの九郎衛門」とあり、年未詳の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家林家長の檀那村書(同文書)には「せきもと村 宿ハ 九郎ゑもん」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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