関門海峡,早鞆(はやとも)ノ瀬戸にかかる全長1068mのつり橋。中央支間長712mは1973年完成当時東洋一,世界第10位で,その後の本州四国連絡架橋工事の試金石となった。両側におのおの支間長178mの側径間をもつ3径間つり橋で,海面から桁までの高さは61m,塔頂までの高さは141mある。ケーブルを定着させる両岸の橋台は横44m,縦55m,高さ38mの巨大なコンクリートの箱で,約3万tのケーブル張力を支えている。橋の両側に配されているケーブルは直径67cmで,これは160kgf/mm以上の引張強さをもつ直径5mmの亜鉛めっき鋼線約1万4000本を平行に束ねて外面を被覆したものである。6車線の道路橋床を支える補剛桁はトラス構造で,強風のもとでも過大な振動を生じないよう,路面の一部に格子状の風抜き部分を設けている。使用した鋼材の総重量は3万2000t,コンクリートの総量は15万m3にのぼる。
本州と九州を交通路で直結する計画も,大正年間の東京大学教授広井勇による計画報告をはじめとして,かなり古くから関心をもたれていた。1930年代半ばには内務省土木局が現在の橋とほぼ同規模のつり橋を計画したこともあったが,軍部の反対で日の目を見なかった。その後,太平洋戦争のさなかに鉄道トンネルが,戦後にはさらに国道トンネルがこの海峡を横切って建設されたが,国道トンネルの交通量が飽和状態に至ったことと高速道路網の整備計画とから,中国自動車道と九州自動車道を結ぶ自動車専用道路橋としてこの橋が建設された。日本道路公団の手により68年12月着工,完成までに300億円の総事業費と約5年の歳月を要した。
執筆者:伊藤 学
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山口県下関(しものせき)市と北九州市門司(もじ)区を結ぶ高速道路である関門自動車道の関門海峡最狭部の早鞆ノ瀬戸(はやとものせと)に架かる長さ1068メートルの吊橋(つりばし)。吊橋の規模を表す主塔間の距離である中央支間長は712メートルであり、1968年(昭和43)に着工し、1973年に完成したときには東洋一の長さを誇った。その後の本州四国連絡橋の建設をも見据えて、多くの橋梁(きょうりょう)技術者が吊橋建設の新しい技術に挑んだ。全長おおよそ1160メートルあるケーブルは、直径5.04ミリメートルの高強度ワイヤを91本束ねたストランドstrand(子綱ともいう)をあらかじめ工場で製作、リールに巻き付けて現場に搬入し、それをキャットウォーク(吊り足場)上に引き出しながら架設していくプレハブストランド工法が日本で初めて使われた。片側ケーブルに154本のストランドが使われ、最終的に直径約67センチメートルのケーブルとなっている。また、トラス形式の補剛桁(ほごうげた)は、主塔から中央に向かってトラスブロックを張り出し架設すると同時に、ボルトで接合する逐次剛結工法も日本で初めて使われた。これにより、架設時の耐風安定性と架設精度の向上が図られた。
[勝地 弘 2025年7月17日]
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… 明治以降,山陽本線の下関までの開通(1901)によって,大陸への西日本の門戸としての地域性を強め,また北九州工業地帯の延長として,下関をはじめ内海沿岸各地に,重化学工業の展開をみた。さらに関門鉄道トンネル(1942)につづいて,第2次大戦後,関門国道トンネル(1958),中国自動車道の関門橋(1973),新幹線の新関門トンネル(1975)が次々に完成して,九州と結ばれ,東西の文化・経済交流の地として発展している。
[停滞的な第1次産業]
山口県は中国山地の西部にあたる低山性・丘陵性の地形が大部分を占め,海岸線も沈水性のところが多い。…
※「関門橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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