7~8世紀にかけて、水上交通の要衝だった古代の難波(現在の大阪市中央区)に築かれた宮殿。初めは孝徳天皇が645年に飛鳥(奈良県)から遷都、652年ごろ完成した。間もなく都は飛鳥へ戻り、天武天皇が副都として整備したものの、686年に焼失。奈良時代の726年、聖武天皇が本格的に再建に着手した。発掘調査で、孝徳天皇が造った建物の屋根は
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現在の大阪市中央区法円坂一帯を中心として所在した7世紀中葉から8世紀末に至る古代宮殿遺跡。上町台地を中心とする古代の難波の地には,古くは応神天皇の大隅(おおすみ)宮,仁徳天皇の高津宮,欽明天皇の祝津(はふりつ)宮などの宮室が置かれたと記紀は伝えている。645年(大化1)6月,飛鳥板蓋(いたぶき)宮における蘇我入鹿暗殺事件を発端としていわゆる大化改新が開始されるが,同年12月,孝徳天皇は都を飛鳥から難波長柄豊碕(ながらとよさき)に移した。東漢直荒田井比羅夫を将作大匠として造営された難波宮は,難波長柄豊碕宮と号され,652年(白雉3)完成し,その宮殿の形状は言葉に尽くしがたいほどりっぱであったという。孝徳天皇が654年長柄豊碕宮で没すると,都は再び飛鳥にかえった。壬申の乱に勝利して飛鳥浄御原宮に即位した天武天皇は,難波宮の整備にも力を注ぎ,677年(天武6)丹比(たじひ)麻呂を摂津職大夫とし,679年には難波に羅城を築いた。683年,天皇は〈凡そ都城宮室は一処に非ず。必ず両参に造らん。故に先ず難波に都せんと欲す〉と詔して百寮に家地を請わせている。しかし686年(朱鳥1)1月,難波の大蔵省から失火して宮室はことごとく焼けたと《日本書紀》に記されている。焼失後の難波宮については明らかではないが,文武,元正,聖武の各天皇の難波宮行幸の記事が残されている。
726年(神亀3),聖武天皇は藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じて,難波宮の大々的な再建に着手した。工事は732年(天平4)ごろ一段落し,734年には宅地が班給されている。740年大宰少弐藤原広嗣(ひろつぐ)の乱が起こると,天皇は伊勢に難を避けたが,その後,都を平城京から山背の恭仁(くに)京,近江の紫香楽(しがらき)宮と転々と移し,次いで744年難波宮を皇都と定めた。しかし翌年には再び平城京に還都することになった。その後も難波宮は維持されていたが,793年(延暦12)の太政官符に〈難波大宮はすでに停止されたので,摂津職を摂津国に改めよ〉とあるのでこのころ廃絶したものと思われる。難波津を中心とする古代の交通,外交,経済,軍事の要所に設けられた難波宮は,孝徳朝の長柄豊碕宮以来聖武朝の難波宮に至るまで約150年の間,日本の首都としてまた副都として古代史上に大きな役割を演じた。
難波宮については《日本書紀》《続日本紀》《正倉院文書》《万葉集》など古代の記録に数多くの記事が残されているが,その所在地については長らく不明のままであった。それが1954年以来の山根徳太郎を中心とする発掘調査によって,難波宮の遺跡が前記の法円坂町一帯の地にあることが明らかにされた。難波宮跡は中軸線をほぼ同じくする前期,後期2時期の宮殿址に大別される。後期難波宮は,蓮華・唐草文軒瓦,重圏文軒瓦など奈良時代の屋瓦を伴うこと,1尺=29.8cm前後の奈良時代の尺度を基準として造営されていること,宮殿の配置や規模が平城宮〈第2次〉内裏・朝堂院に近似することなどから,聖武天皇が再建した奈良時代の難波宮に比定できる。これまでに主として内裏・朝堂院など中心部の状況が明らかにされている。前期難波宮は柱穴の重複関係からみて明らかに後期難波宮より時期のさかのぼるもので,すべて掘立柱建物で屋瓦を使用していないこと,1尺=29.2cmを基準尺として造営されていること,とくに全面に火災に遭った痕跡を残していることなどからみて,686年1月に全焼したと《日本書紀》に記される難波宮の遺構に当たると考えられる。
問題はその造営時期であるが,これまでの考古学的調査や文献史料による研究成果を総合して考えると,前期難波宮は,大化改新の際の難波遷都に伴って造営された孝徳朝の難波長柄豊碕宮の遺構で,それが天武朝まで存続していたものが686年に焼失したと考えられる。したがって難波宮は孝徳朝以来聖武朝に至るまで,一貫して上町台地上に営まれていたことになる。前期難波宮の遺構は後期のもの同様,主として内裏・朝堂院の部分が明らかにされている。曲折して南北に延びる掘立柱回廊が左右対称に配され,その内部は7間×2間の巨大な門で大きく二分されているが,北が内裏,南が朝堂院に当たると推定される。内裏はさらに内裏前殿と東・西長殿の部分と内裏後殿と東・西脇殿の部分に分かれ,朝堂院では西第1~4堂の存在が確認されている。内裏と朝堂院の接続部に位置する八角殿院は,他宮跡には例のない特異なもので,その性格が注目されている。また内裏・朝堂院の約200m東方からは2棟の倉庫を中心とする官衙と推定される遺構群も検出された。前期難波宮の殿舎配置や規模は,北に内裏,南に朝堂院を置く藤原宮以降の日本の都城制度の原型としての特色をよく示している。現在難波宮の中心部約8万9000m2が国の史跡に指定され,そのうちの約6万6000m2が難波宮史跡公園として整備されつつある。
→難波 →難波京
執筆者:中尾 芳治
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孝徳天皇による難波遷都以来,奈良時代末の難波大宮廃絶までの約150年間,難波地域に維持された宮殿群の総称。大阪市中心部の上町台地上に遺構がある。難波は津により西国および中国・朝鮮との海上交通の接点として機能し,古くは応神天皇の難波大隅宮,仁徳天皇の難波高津宮,欽明天皇の難波祝津宮(はふりつのみや)などが営まれ,倉庫群や大郡(おおごおり)・小郡(おごおり)などの迎賓施設も存在した。孝徳天皇の難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)は,645年(大化元)の難波遷都により造営を開始し,将作大匠の倭漢直(やまとのあやのあたい)荒田井比羅夫(あらたいのひらふ)が造営を担当して652年(白雉3)に完成する。686年(朱鳥元)火災により焼失するが,以後も持統・文武・元正・聖武の各天皇による行幸がみられる。726年(神亀3)聖武天皇は藤原宇合(うまかい)を知造難波宮事に任じ宮を再建させ,宅地班給を行った。744年(天平16)には一時皇都とされたこともあるが,793年(延暦12)には難波大宮は停止された。国史跡。
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