雪蹊寺(読み)せっけいじ

精選版 日本国語大辞典 「雪蹊寺」の意味・読み・例文・類語

せっけい‐じ【雪蹊寺】

高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は小林山。延暦年間(七八二‐八〇六空海創建し高福寺と称した。のち鎌倉初期に仏師の運慶・湛慶が来て仏像を作製したことから慶雲寺と改めた。天文年間(一五三二‐五五)には南村梅軒の弟子天室が住み、南学の道場となる。慶長四年(一五九九月峰禅師が中興し、現名に改称長宗我部氏菩提寺。四国霊場八十八か所第三三番札所

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デジタル大辞泉 「雪蹊寺」の意味・読み・例文・類語

せっけい‐じ【雪蹊寺】

高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は少林山。延暦年間(782~806)に空海が創建。初め高福寺、のち慶雲寺と称し、安土桃山時代に月峰が中興して臨済宗となる。長宗我部ちょうそかべ氏の菩提ぼだい寺。四国八十八箇所第33番札所。

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日本歴史地名大系 「雪蹊寺」の解説

雪蹊寺
せつけいじ

[現在地名]高知市長浜

長浜ながはま川左岸にある。臨済宗妙心寺派。小林山と号し、本尊薬師如来。古くは真言宗保寿山高福こうふく寺といい、後に慶雲けいうん寺と改めたという。四国霊場八十八ヵ所の三三番札所で、御詠歌に「旅の道うえしも今は高福寺のちの楽しみ有明の月」と歌われる。

寺伝によれば弘法大師の開創という。「編年紀事略」は嘉禄元年(一二二五)右近将監定光なる者が高福寺を造営したと伝える。「古文叢」には同年一二月五日付の鐘銘が収められるが、それには「土州高福寺撞鐘大願主越智氏 当寺建立本願主刀阿念生霊 俗名父生大仲臣福光奉寸増鐘撞也、檀那右近将監定光」とみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「雪蹊寺」の意味・わかりやすい解説

雪蹊寺
せっけいじ

高知市長浜にある臨済(りんざい)宗妙心寺派の寺。高福山(こうふくざん)と号する。本尊は薬師如来(にょらい)。四国八十八か所第33番札所。延暦(えんりゃく)年間(782~806)空海によって開創され、初め保寿山高福寺といい真言(しんごん)宗の寺であったと伝える。その後、慶雲寺と称したが、運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)がこの寺の本尊、脇侍(きょうじ)などを補修したのにちなむともいう。安土(あづち)桃山時代には長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)の援助により月峰(げっぽう)が中興して臨済宗となる。1599年(慶長4)元親が没すると嗣子(しし)の盛親(もりちか)はこの寺を菩提(ぼだい)寺と定め、元親の法号にちなんで雪蹊寺と改称した。明治維新のとき一時廃寺となったが、1880年(明治13)大玄が再興した。鎌倉盛期の仏像の宝庫で、木造薬師如来および両脇侍像、湛慶作の木造毘沙門天(びしゃもんてん)、吉祥天(きちじょうてん)、善膩師(ぜんにし)童子像は国重要文化財に指定されている。

[菅沼 晃]


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百科事典マイペディア 「雪蹊寺」の意味・わかりやすい解説

雪蹊寺【せっけいじ】

高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺。本尊薬師如来。空海の創建と伝え,高福寺と号したが,慶長年間(1596年―1615年)に長宗我部氏が菩提所と定め寺号を改めた。南村梅軒の門人天室が住して以後南学の道場となった。湛慶作の毘沙門天・吉祥天・善膩師(ぜんにし)童子立像ほか鎌倉彫刻の名作が多い。
→関連項目湛慶

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デジタル大辞泉プラス 「雪蹊寺」の解説

雪蹊寺

高知県高知市にある寺院。臨済宗妙心寺派。延暦年間、空海の創建と伝わる。廃寺となった後、天正年間に臨済宗の寺として復興。四国八十八ヶ所霊場第33番札所。本尊の薬師如来像(重文)をはじめ、鎌倉時代の名仏師、運慶・湛慶作の仏像を多く所蔵。

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