日本歴史地名大系 「慶雲寺」の解説 慶雲寺けいうんじ 兵庫県:神戸市須磨区車村慶雲寺[現在地名]須磨区車車(くるま)の旧集落にある臨済宗南禅寺派の寺院。明治二〇年(一八八七)臨済宗善福(ぜんぷく)寺・慶雲庵が合併して改称した。海蔵山と号し、現在は釈迦如来を本尊とする。戦国時代の書写とみられる矢部郡車村善福寺来歴事(慶雲寺文書)によると、本尊は矢拾地蔵と称し、もと兵庫津にあった。足利尊氏がこの地蔵に戦勝祈願をしたところ霊験があったので、建武三年(一三三六)兵庫下庄車村を寄進した。その後、赤松範資が車村に一寺を建立して地蔵を移し、海蔵山善福寺として子の彦智を開山としたという。永享九年(一四三七)三月四日の了妙田地譲状(藤田文書)に「一所車畑三十苅、在善福寺之前」とみえる。文明一〇年(一四七八)には寺領六〇刈を白川畑(しらかわはた)の太郎左衛門に売却しなければならないこともあったが(同年一一月六日「善福寺田地売券」同文書)、その後二、三の寄進も受け(文明一四年七月一九日「永寿蔵主畠山寄進状」同文書など)、寺勢を回復したらしい。 慶雲寺けいうんじ 広島県:比婆郡比和町三河内村慶雲寺[現在地名]比和町三河内 小和田祥光山と号し、曹洞宗。本尊は聖観世音菩薩。三河内(みつがいち)と川北(かわぎた)(現庄原市)の境にある勝光(しようこう)山(九四七メートル)には、古くは天台宗の寺坊一二があったといい(芸藩通志)、同山から移ったと伝える寺院が周辺諸村にある。当寺もその一つと伝え、勝光山(祥光山)を山号としたという。天正年間(一五七三―九二)三子山(みつごやま)城主三河内氏が現在地に堂宇を建立し、菩提寺としたと伝える。山内首藤氏とともに三河内氏が毛利氏の転封でこの地を去ると、延宝九年(一六八一)小田作左衛門広忠が三河内氏の持仏堂の聖観音を当寺に移した。 慶雲寺けいうんじ 奈良県:北葛城郡新庄町大屋村慶雲寺[現在地名]新庄町大字大屋大屋(おおや)の東部、旧竹内下市(たけのうちしもいち)街道に面してある。龍富山と号し、臨済宗南禅寺派。本尊千手(十一面)観音。古くは真言宗に属し二塚(ふたづか)城(現新庄町)のほとりにあったが、城主布施行種が深く禅宗を信じ改宗、永正一三年(一五一六)三月この地に移して慶雲寺と号し自ら開山となり、江戸から梅渓を迎え初住としたという。爾来、布施氏の菩提寺となっている。近世以後、新庄藩主桑山氏の帰依を受けた。 慶雲寺けいうんじ 神奈川県:横浜市神奈川区神奈川町慶雲寺[現在地名]神奈川区神奈川本町成仏(じようぶつ)寺と並ぶ。吉祥山茅草院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。開山の定蓮社音誉聖観は芝(しば)増上寺の三世で文明一一年(一四七九)没。宗牧の「東国紀行」天文一四年(一五四五)三月三日の項に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづくへの城衆へいひつけられて、旅宿慶雲寺にかまへたり」と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by