近世初期、海南の地土佐(とさ)(高知県)に発達した宋学(そうがく)(朱子学)を南学(または海南学派)という。この地方における宋学の興起は、天文(てんぶん)年間(1532~55)、大内義隆(よしたか)の御伽衆(おとぎしゅう)であった南村梅軒(みなみむらばいけん)が土佐に移って弘岡(ひろおか)城主吉良宣経(きらのぶつね)に朱子学を教えたことに始まる。宣経の死後、梅軒の学は吸江庵(きゅうごうあん)の忍性(にんしょう)、宗安寺(そうあんじ)の如淵(じょえん)、雪蹊寺(せっけいじ)の天室(てんしつ)(天質)らの禅僧に受け継がれ、さらに天室門下の谷時中(たにじちゅう)によって世俗世界にもたらされた。その後、時中門下の野中兼山(けんざん)、小倉三省(おぐらさんせい)(1604―54)、山崎闇斎(あんさい)の手によって、南学は禅から完全に離れ、現実社会の実践的指導理念として土佐藩で力をもつに至った。小学(しょうがく)や文公家礼(ぶんこうかれい)の重視という点に日本の他の朱子学にみられない特色がある。兼山の失脚後この学派の人々は四散したが、谷秦山(しんざん)が出るに及んでまた土佐の地によみがえった。
[源 了圓]
『大高坂芝山著『南学伝』(関儀一郎編『日本儒林叢書 第三巻』所収・復刊・1971・鳳出版)』▽『寺石正路著『南学史』(1934・冨山房)』▽『糸賀国次郎著『海南朱子学発達の研究』(1935・成美堂書店)』▽『和島芳男著『日本宋学史の研究』(1962・吉川弘文館)』▽『横川末吉著『野中兼山』(1962・吉川弘文館)』
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…土佐の人。初め仏門に入ったが,のち海南朱子学(16世紀の中ごろ,南村梅軒が土佐に伝えたといわれる儒学)の天室に従って儒学を学び,ついに儒者として朱子学を土佐に唱え,当時これを南学と称した。野中兼山,山崎闇斎らがその教えを受け,単に土佐海南朱子学の確立者たるのみならず,日本近世朱子学の首唱者となる。…
…文芸では五山文学の双璧とされる義堂周信,絶海中津,これを継いだ旭岑瑞杲(別号待雨)などがある。ただ南学の祖として喧伝される南村梅軒は,大高坂芝山の捏造(ねつぞう)した架空の人物である。美術工芸品としては金剛頂寺,妙山寺,金林寺,禅師峯寺,竹林寺,雪蹊寺,宗安寺,大平寺などに鎌倉・室町期の仏像,仏具,仏画などが残されており,建築では長宗我部元親修造の国分寺金堂,土佐神社社殿がある。…
…北に吉良ヶ峰(きらがみね)(249m)を負い,南に弘岡平野が開ける弘岡上に,戦国期土佐七雄の一人に数えられた吉良氏の居城吉良城(弘岡城)があった。吉良氏は周防山口から南村梅軒を迎えてその講学を聴いたといい,南学(海南朱子学)発祥の地と伝えられる。江戸初期,野中兼山によって仁淀川東岸に4里に及ぶ弘岡井筋が築かれ,高知城下への物資輸送と吾川郡南部の灌漑に大きく機能,弘岡平野を土佐屈指の農業地帯とした。…
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