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青木繁 あおき しげる

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美術人名辞典の解説

青木繁

洋画家。福岡県生。東美校卒。初め森三美に師事。小山正太郎の不同舎を経て、東美校に入学。在学中に第1回白馬賞を受け注目された。帰郷後は放浪生活に入り、天草・佐賀地方を転々とした。哲学、神話等に取材した文学的作風が特色であり、戦後は明治浪漫主義美術の代表的作家として高く評価される。明治44年(1911)歿、28才。

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デジタル大辞泉の解説

あおき‐しげる〔あをき‐〕【青木繁】

[1882~1911]洋画家。久留米の生まれ。西欧世紀末芸術の影響を受けて伝説・神話に取材した作品が多い。放浪のうちに夭折。「海の幸」「わだつみのいろこの宮」などの作がある。

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百科事典マイペディアの解説

青木繁【あおきしげる】

明治期の洋画家。久留米生れ。1899年上京,小山正太郎の不同舎に入る。1904年東京美術学校西洋画科選科卒。その前年白馬会展に《黄泉比良坂(よもつひらさか)》など日本神話に取材した画稿を出品,第1回白馬賞受賞。
→関連項目坂本繁二郎栃木県立美術館

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

青木繁 あおき-しげる

1882-1911 明治時代の洋画家。
明治15年7月13日生まれ。福田蘭童の父。黒田清輝(せいき)の指導をうけ,明治36年白馬会展で「黄泉比良坂(よもつひらさか)」などが第1回白馬会賞。翌年「海の幸」を制作,才能をみとめられる。40年東京府勧業博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品するが3等賞末席にとどまる。同年父が危篤のため帰郷。九州を放浪,結核のため福岡で明治44年3月25日死去。30歳。福岡県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
【格言など】此世の怨恨と憤懣と呪詛とを捨てて,静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候(死の4ヵ月前,姉妹にあてた手紙)

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朝日日本歴史人物事典の解説

青木繁

没年:明治44.3.25(1911)
生年:明治15.7.13(1882)
明治期の洋画家。旧久留米藩士青木廉吾の長男。福岡県久留米市生まれ。坂本繁二郎とは小学校同級生。中学明善校在学中森三美に洋画の手ほどきを受け,明治32(1899)年洋画家を志して中学を中退し上京する。このとき,島崎藤村の『若菜集』を懐中にしたとされ,文学的な嗜好と資質は生来のものがあった。同年不同舎に入門し,翌年東京美術学校(東京芸大)西洋画科選科に入学,黒田清輝の指導を受け,同期に熊谷守一らがいた。35年,一時帰郷し坂本を伴って東京へ戻り,坂本らと妙義山へ写生旅行に赴く。一連の「妙義行スケッチ」には,すでに独特な生気のある鋭い線描と微妙な律動感がみてとれる。翌年,記紀の神話やインド外道諸派の物語に取材した「黄泉比良坂」「闍威弥尼」などを第8回白馬会展に出品,第1回白馬会賞を受け,その清新な作風で一躍注目された。37年美術学校を卒業,その夏に森田恒友,坂本,福田たねと房州布良に遊び「海の幸」(ブリヂストン美術館蔵)を制作,第9回白馬会展に出品しその構想力の豊かさで大きな反響を呼んだ。また,蒲原有明との交友が始まり,翌年には有明の詩集『春鳥集』の口絵と挿絵を描いた。40年,東京府勧業博覧会に意欲作「わだつみのいろこの宮」(石橋美術館蔵)を出品したが,期待に反して3等賞最末席に終わった。同年夏父危篤の知らせで帰郷,九州から第1回文展に旧作の「女の顔」を出品したが落選した。翌年から放浪生活に入り,天草,佐賀地方を貧窮と病苦の内に転々とした。同42年,中央画壇への復帰を願って第3回文展に「秋声」を出品したが落選し,その夢を絶たれた。福岡市で没。制作の高潮期は「海の幸」前後にあり,ラファエル前派やピュヴィス・ド・シャヴァンヌなどの影響を示しながらも,魅惑的な色調や生彩感に富む筆致は独自のもので,この期の作品は明治浪漫主義絵画を代表するものとなっている。福田たねとの間に1子(幸彦,福田蘭童)がある。遺稿集に『仮象の創造』。

(三輪英夫)

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世界大百科事典 第2版の解説

あおきしげる【青木繁】

1882‐1911(明治15‐44)
洋画家。有馬藩の下級武士青木廉吾の長男として久留米市に生まれた。高等小学校では坂本繁二郎と同級で,共に森三美から洋画の手ほどきを受けた。中学明善校で級友と文芸雑誌《画藻》を出すなど早くから文芸に関心が傾き,1899年同校を退学して上京,不同舎に入って小山正太郎の指導を受けた。翌年東京美術学校西洋画科選科に入学,黒田清輝らの外光派的表現を学ぶが,さらに《古事記》などの日本神話,ギリシア神話,インド外道諸派の物語を耽読し,ラファエル前派にひかれ,明治ロマン主義文学の高揚期にあって独特のロマン主義的画風を形成した。

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大辞林 第三版の解説

あおきしげる【青木繁】

1882~1911) 洋画家。福岡県生まれ。東京美術学校卒。放浪中に胸を病み早世。ロマン性の強い文学的作風に特色がある。代表作「海の幸」「わだつみのいろこの宮」

出典|三省堂
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

青木繁
あおきしげる

[生]1882.7.13. 久留米
[没]1911.3.25. 福岡
明治の洋画家。高等小学校で坂本繁二郎と同級。初め森三美に洋画を学び,1899年,久留米中学明善校を中退後上京し,不同舎で小山正太郎に師事。翌年東京美術学校西洋画選科に入学し 1904年卒業。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

青木繁
あおきしげる
(1882―1911)

明治後期の浪漫(ろうまん)主義思潮を代表する夭折(ようせつ)の天才的油彩画家。明治15年7月13日、福岡県久留米(くるめ)に生まれる。父は旧有馬(ありま)藩士で明治維新の際は勤皇党であった。高等小学校の同級に坂本繁二郎がいた。久留米中学明善校時代は、級友と文芸雑誌を出すほか、坂本とともに森三美(みよし)について洋画を始めた。やがて画家を志して中学を退校し、上京して小山(こやま)正太郎の不同舎に入門するが、翌1900年(明治33)東京美術学校西洋画科に入学した。黒田清輝(せいき)に外光派の画法を学ぶほか、広く哲学、宗教、神話、文学に熱中している。その成果は『黄泉比良坂(よもつひらさか)』『闍威弥尼(じゃいみに)』などの水彩画となり、1903年白馬会第8回展に出品して第1回白馬会賞を受けた。これらは日本やインドの古代神話、伝説から画想を得ており、文学的浪漫性が豊かに、幻想的に絵画化されている。1904年美校を卒業、同級生に熊谷守一(くまがいもりかず)、山下新太郎らがいた。この年の夏、房州で印象派的な『海景』連作ならびに代表作『海の幸』(重要文化財)を制作し、後者は白馬会に出品されて一躍名声をあげ、詩人蒲原有明(かんばらありあけ)を感激させ、親交の機縁となった。翌年福田たねとの間に一子幸彦(福田蘭童(らんどう))が生まれた。
 青木はラファエル前派、ギュスタブ・モロー、シャバンヌなども独自に吸収し、明治30年代後半、時代の上昇機運と芸術思潮を背景として、黒田系外光派を超えた香り高い浪漫的美術を開花させて注目される。1907年東京府勧業博覧会で『わだつみのいろこの宮』(重要文化財)により三等賞を受けたのち、家の事情で帰郷して数年間九州各地を放浪、制作し、明治44年3月25日、窮乏のうちに28歳の生涯を閉じた。[小倉忠夫]
『青木繁著『假象の創造』(1966・中央公論美術出版) ▽河北倫明著『青木繁』(1972・日本経済新聞社) ▽檀一雄・大島清次・高階秀爾著『日本の名画 12 青木繁』(1975・中央公論社)』

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世界大百科事典内の青木繁の言及

【印象主義】より

…この新風は,96年,東京美術学校に西洋画科が設けられて黒田がその主任となり,またそれまでの明治美術会に対して黒田を中心とする白馬会が結成されるに及んで大きな力となり,従来の旧派,脂(やに)派に対して,新派,紫派と呼ばれて,その後の日本洋画の中心的傾向となった。この傾向は,黒田の弟子の岡田三郎助,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),中沢弘光(1874‐1964),藤島武二らに受け継がれ,青木繁も,一時印象派風の海浜風景を描いた。明治末年になると,南薫造(みなみくんぞう)(1883‐1950),有島生馬,山下新太郎(1881‐1966)らの新帰朝者たちによってさらに刺激が与えられ,明るい色彩,大きな筆触を特色とする印象派風の外光表現は,日本洋画の確固とした一つの流れとなった。…

【明治・大正時代美術】より

…1864‐1930),中沢弘光(1874‐1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876‐1949),小林万吾(1870‐1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。これらの中では,《天平の面影》(1902)や《蝶》(1904)を描いた藤島武二と,彼の影響を受けて《海の幸》(1904)や《わだつみのいろこの宮》(1907)のように詩情豊かな浪漫的な作風をうち出した青木繁が傑出している。 明治美術会にも,欧米に学んだ中村不折,満谷(みつたに)国四郎(1874‐1936),吉田博(1876‐1950),鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)(1874‐1941),中川八郎(1877‐1922),河合新蔵(1867‐1936),丸山晩霞(1867‐1942),大下藤次郎などが現れて,1901年太平洋画会を興し,白馬会に対抗した。…

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