坂本繁二郎(読み)サカモトハンジロウ

デジタル大辞泉 「坂本繁二郎」の意味・読み・例文・類語

さかもと‐はんじろう〔‐ハンジラウ〕【坂本繁二郎】

[1882~1969]洋画家。福岡の生まれ。二科会の創立に参加。馬・能面などを題材として、微妙な色調のうちに思索的情趣をたたえた作品を制作した。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「坂本繁二郎」の意味・読み・例文・類語

さかもと‐はんじろう【坂本繁二郎】

洋画家。福岡県出身。不同舎に学ぶ。二科会の創立に参加、大正一〇~一三年(一九二一‐二四)渡仏。内面的な独特の深味のある作風で知られる。馬、柿、能面などを好んで描いた。文化勲章受章。明治一五~昭和四四年(一八八二‐一九六九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「坂本繁二郎」の意味・わかりやすい解説

坂本繁二郎
さかもとはんじろう
(1882―1969)

洋画家。明治15年3月2日、久留米(くるめ)市に旧有馬藩士の子として生まれる。高等小学校時代に森三美(みよし)について洋画を学ぶが、同級生に青木繁(しげる)がいた。1902年(明治35)上京して小山(こやま)正太郎の不同舎に入門、翌年新設の太平洋画会研究所に学び、同会展覧会に出品を続ける。07年、東京府勧業博覧会に『大島の一部』を出品して三等賞牌(しょうはい)を受けるほか、同年第1回文展に出品。しばらく東京パックに入社のほか、『方寸(ほうすん)』誌の同人となる。10年第4回文展で『張り物』が褒状、第5回文展で『海岸』が三等賞を受けたが、14年(大正3)在野の二科会の創立に参加した。印象主義を徹底して試み、やがてその感覚的な限界を超えて、物の存在の本質的な追求へと歩みを進めていく。

 1921~24年渡仏し、アカデミー・コラロッシに入り、『帽子を持てる女』などをサロン・ドートンヌに出品。大いに油彩技術の進歩をみるとともに、自己本来の画道への自信を深め、帰国後は上京せず郷里定住、31年(昭和6)福岡県八女(やめ)にアトリエを構えた。昭和初めから九州各地に馬を求めて題材とし、『放牧三馬』ほか数多く制作するほか、戦時中は身辺の静物を題材としている。第二次世界大戦後は自由な無所属の立場を守り、芸術院会員に推されたが辞退し、能面などを好んで主題として瞑想(めいそう)的な東洋の近代的写実画境を深めた。『水より上がる馬』により53年度の毎日美術賞を受けた。翌年ベネチア・ビエンナーレ展に出品。56年に文化勲章、63年に朝日賞を受けた。最晩期には『幽光』など月をモチーフにした幻想的作品が少なくない。昭和44年7月14日八女市の自宅で没した。

[小倉忠夫]

『『坂本繁二郎文集』増補改訂版(1970・中央公論社)』『小倉忠夫解説『現代日本美術全集11 坂本繁二郎』(1972・集英社)』『河北倫明著『坂本繁二郎』(1974・中央公論美術出版)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「坂本繁二郎」の意味・わかりやすい解説

坂本繁二郎
さかもとはんじろう

[生]1882.3.2. 福岡,久留米
[没]1969.7.14. 福岡,八女
洋画家。高等小学校で同級であった青木繁とともに森三美(もりみよし)に洋画を学び,1902年青木とともに上京,同じく小山正太郎の不同舎に入る。1904年から太平洋画会研究所に学び,太平洋画会展,文展に出品。1914年二科会創立に参加,戦時体制下での解散(1944)まで二科展にウシを主題とする作品を多く発表。1921年渡欧。1924年の帰国後は郷里久留米市に住み,放牧馬に取材した作品を多く制作した。1931年福岡県八女市に移住後は寡作ながらウマ,果物,野菜を題材とした作品を発表。第2次世界大戦後は美術団体に属さず静かな創作生活を送り,晩年に左眼の視力を失ったが最後まで制作を続けた。印象派的表現(→印象主義)から,微妙な色彩の調和のなかに内面性の強い実在感を求める東洋的後期印象派ともいえる画風を築き,近代日本洋画壇で独自の位置を占めた。1954年毎日美術賞,1956年文化勲章,1963年朝日賞を受ける。八女市名誉市民。主要作品『うすれ日』(1912),『放牧三馬』(1932),『水より上る馬』(1953),『能面』(1955)。

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百科事典マイペディア 「坂本繁二郎」の意味・わかりやすい解説

坂本繁二郎【さかもとはんじろう】

洋画家。久留米市生れ。1902年青木繁とともに上京して小山正太郎の不同舎に入り,翌年太平洋画会研究所に移った。1907年第1回文展に出品した《北茂安村の一部》で画壇に出,1914年二科会創立に参加。その間東京パックに入社し漫画を描いたこともある。1921年―1924年フランスに滞在し,サロン・ドートンヌに《帽子を持てる女》《眠れる少女》を出品した。1931年以後福岡県八女(やめ)市で制作,《放牧三馬》《水より上る馬》など馬を描いた優作が多いが,晩年は他に《能面》《砥石》など身辺の静物を多く描き,微妙な色彩の階調で幻想的世界を追求した。1956年文化勲章。著書《私の絵 私のこころ》。
→関連項目福岡県美術館

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改訂新版 世界大百科事典 「坂本繁二郎」の意味・わかりやすい解説

坂本繁二郎 (さかもとはんじろう)
生没年:1882-1969(明治15-昭和44)

洋画家。福岡県久留米に生まれ,小学校時代から油絵を描き,1902年同郷の青木繁と共に上京して不同舎,太平洋画会研究所に学んだ。10年以降文展に入選したが,14年在野二科会の創立に参加,21年から24年までフランスに留学,中間色による独特の色調はこの留学で身につけた。帰国後は久留米に居を定め,没するまで九州にあって,牧場の馬や牛,あるいは果実や野菜,箱,能面などを主題とした作品を描き,また80歳をこえると月を描いた連作を発表,没するまで意欲的な制作活動を展開した。彼は,印象派の造形精神と技法,またコローの作品にひかれ,それらの特質を消化し,柔和で優美な色彩と事物の本質に迫る観察眼とによって,存在感あふれる奥深い絵画空間を創造した。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「坂本繁二郎」の解説

坂本繁二郎 さかもと-はんじろう

1882-1969 明治-昭和時代の洋画家。
明治15年3月2日生まれ。35年上京して不同舎,太平洋画会研究所にまなぶ。第1回文展に入選。のち二科会の創立に参加した。フランス留学後は郷里福岡県で「放牧三馬」など馬をテーマに制作。晩年は能面や静物などをえがく。昭和31年文化勲章。昭和44年7月14日死去。87歳。
【格言など】ぼくは生涯好きなことをやってきた。ほんとうにお世話になったね(最期の言葉)

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世界大百科事典(旧版)内の坂本繁二郎の言及

【明治・大正時代美術】より

…芸術表現における画家の人格=自我の優越を主張する個性主義的な芸術は,まず二科会によって強力に実践されることになった。 二科会は石井柏亭,津田青楓,梅原竜三郎,山下新太郎,有島生馬,斎藤豊作,坂本繁二郎,湯浅一郎(1868‐1931),小杉未醒(放庵)を創立会員として,14年に発足した。またクールベやセザンヌに学んでフランスから帰った安井曾太郎が翌15年に参加し,《足を洗う女》(1913),《孔雀と女》(1914)などのすぐれた滞欧作によって多くの青年画家を吸引した。…

※「坂本繁二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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