洋画家。明治15年3月2日、久留米(くるめ)市に旧有馬藩士の子として生まれる。高等小学校時代に森三美(みよし)について洋画を学ぶが、同級生に青木繁(しげる)がいた。1902年(明治35)上京して小山(こやま)正太郎の不同舎に入門、翌年新設の太平洋画会研究所に学び、同会展覧会に出品を続ける。07年、東京府勧業博覧会に『大島の一部』を出品して三等賞牌(しょうはい)を受けるほか、同年第1回文展に出品。しばらく東京パックに入社のほか、『方寸(ほうすん)』誌の同人となる。10年第4回文展で『張り物』が褒状、第5回文展で『海岸』が三等賞を受けたが、14年(大正3)在野の二科会の創立に参加した。印象主義を徹底して試み、やがてその感覚的な限界を超えて、物の存在の本質的な追求へと歩みを進めていく。
1921~24年渡仏し、アカデミー・コラロッシに入り、『帽子を持てる女』などをサロン・ドートンヌに出品。大いに油彩技術の進歩をみるとともに、自己本来の画道への自信を深め、帰国後は上京せず郷里に定住、31年(昭和6)福岡県八女(やめ)にアトリエを構えた。昭和初めから九州各地に馬を求めて題材とし、『放牧三馬』ほか数多く制作するほか、戦時中は身辺の静物を題材としている。第二次世界大戦後は自由な無所属の立場を守り、芸術院会員に推されたが辞退し、能面などを好んで主題として瞑想(めいそう)的な東洋の近代的写実画境を深めた。『水より上がる馬』により53年度の毎日美術賞を受けた。翌年ベネチア・ビエンナーレ展に出品。56年に文化勲章、63年に朝日賞を受けた。最晩期には『幽光』など月をモチーフにした幻想的作品が少なくない。昭和44年7月14日八女市の自宅で没した。
[小倉忠夫]
『『坂本繁二郎文集』増補改訂版(1970・中央公論社)』▽『小倉忠夫解説『現代日本美術全集11 坂本繁二郎』(1972・集英社)』▽『河北倫明著『坂本繁二郎』(1974・中央公論美術出版)』
明治〜昭和期の洋画家
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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洋画家。福岡県久留米に生まれ,小学校時代から油絵を描き,1902年同郷の青木繁と共に上京して不同舎,太平洋画会研究所に学んだ。10年以降文展に入選したが,14年在野二科会の創立に参加,21年から24年までフランスに留学,中間色による独特の色調はこの留学で身につけた。帰国後は久留米に居を定め,没するまで九州にあって,牧場の馬や牛,あるいは果実や野菜,箱,能面などを主題とした作品を描き,また80歳をこえると月を描いた連作を発表,没するまで意欲的な制作活動を展開した。彼は,印象派の造形精神と技法,またコローの作品にひかれ,それらの特質を消化し,柔和で優美な色彩と事物の本質に迫る観察眼とによって,存在感あふれる奥深い絵画空間を創造した。
執筆者:毛利 伊知郎
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…芸術表現における画家の人格=自我の優越を主張する個性主義的な芸術は,まず二科会によって強力に実践されることになった。 二科会は石井柏亭,津田青楓,梅原竜三郎,山下新太郎,有島生馬,斎藤豊作,坂本繁二郎,湯浅一郎(1868‐1931),小杉未醒(放庵)を創立会員として,14年に発足した。またクールベやセザンヌに学んでフランスから帰った安井曾太郎が翌15年に参加し,《足を洗う女》(1913),《孔雀と女》(1914)などのすぐれた滞欧作によって多くの青年画家を吸引した。…
※「坂本繁二郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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