青柳卓雄(読み)あおやぎたくお

日本大百科全書(ニッポニカ) 「青柳卓雄」の意味・わかりやすい解説

青柳卓雄
あおやぎたくお
(1936―2020)

医療工学者。新潟県新発田(しばた)市生まれ。パルスオキシメーター原理発明で知られる。1958年(昭和33)新潟大学工学部電気工学科卒。1993年(平成5)東京大学で工学博士号を取得。

 1958年に島津製作所入社し、1971年に日本光電工業へ移った。開発部に所属し、患者の容態を非侵襲で測定できる患者モニタリング装置の開発に取り組む。とくに麻酔科医との会話をきっかけに、動脈血酸素濃度を簡単に測れる装置の開発に力を注いだ。当時は、採血しないと酸素飽和度は把握できず、麻酔時の患者管理は、患者の顔色を見て判断していたため、管理がむずかしく、ときには犠牲者も出た。酸素を運ぶ血中のヘモグロビンは、酸素と結びつくと赤外光を吸収しやすいことを利用して、ヘモグロビンに占める酸素ヘモグロビンの割合をこの光の吸収の違いから測定できたが、静脈血からのノイズネックとなっていた。

 1972年、静脈血からのノイズを除去するため、動脈特有の拍動(パルス)を同時に読み込むことで、動脈血だけの信号をもとに酸素飽和度を連続的に測定できることを発見した。1974年に国内の学会で発表したが、それほど注目されなかった。翌1975年に日本光電工業は耳介(じかい)で測る「イヤオキシメーター」を発売したがあまり売れなかったため、開発はいったん中断。一方、ライバルのミノルタカメラ(現、コニカミノルタ)が1977年に世界で初めて指先測定型パルスオキシメーターを発売し、1980年代になると麻酔中の酸欠による死亡事故が多発したアメリカで、パルスオキシメーターの有用性が理解され、多くの企業が参画して改良が進み、世界に急速に広まった。

 青柳は、1979年に日本光電工業において、パルスオキシメーターの原理に関する特許を取得したものの、英語の論文を発表していなかったため世界的には無名であった。1987年にアメリカの呼吸生理学の世界的権威である研究者セベリングハウスJohn Severinghaus(1922―2021)が来日して、青柳と面会後に、青柳の業績を論文で紹介したことで、パルスオキシメーターの開発者として世界で知られるようになった。

 日本光電工業は、1988年にパルスオキシメーターの生産を再開。青柳は同社の開発部長、R&Dセンタ青柳研究室長などを務め、亡くなる2020年(令和2)まで同社の技術開発本部の研究室長を務めた。

 青柳は、2002年(平成14)に紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章、2015年に医療分野における革新的な技術開発を評価されて、アメリカ電気電子学会(IEEE)学会賞を日本人で初めて受賞した。また、2020年から世界的に広がった新型コロナウイルス感染症(COVID(コビッド)-19)患者の病態把握などにおいて、パルスオキシメーターの有用性が世界的に再認識され、「パルスオキシメーターの開発と実用化」により、日本光電工業が2020年第4回日本医療研究開発大賞および内閣総理大臣賞を受賞した。なお、2013年のノーベル医学生理学賞に推薦されていたことも明らかになっている。

[玉村 治 2023年7月19日]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「青柳卓雄」の解説

青柳卓雄 あおやぎ-たくお

1936- 昭和後期-平成時代の電気技術者。
昭和11年2月14日生まれ。島津製作所をへて,昭和46年日本光電工業に入社。49年動脈血の酸素飽和度をはかるパルスオキシメーターの原理を確立,試作品をつくる。のち製品化され世界的に普及。低酸素状態の発見が容易になり,麻酔下手術中の死亡は激減した。平成12年科学技術庁長官賞,14年日本麻酔科学会社会賞。新潟県出身。新潟大卒。

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