鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は28歳のとき北条時頼に仕え,以後評定衆,評定頭人として活躍し,数十ヵ所の所領を知行した。その質素廉直な評定衆としての政治姿勢について数々の逸話を残すが(《弘長記》《太平記》),《吾妻鏡》等の幕府関係の記録にまったくあらわれず,その実在についてはなお疑問が存する。
執筆者:小田 雄三
藤綱は名裁判官として文学や演劇に登場し,さまざまな逸話が伝えられている。荘園にまつわる裁判に,一人理を主張して執権の威をはばからず,執権の敗訴を裁定したこと,鎌倉の滑川(なめりかわ)に銭10文を落とし,50文のたいまつを求めてこれを探し,天下の利とした逸話など,《太平記》巻三十五によって名高く,名裁判官としての伝承は,江戸期にも語りつがれ,《鎌倉比事》(月尋堂著の浮世草子,1708刊)など,北条執権の裁判に仮託した物語に書きつがれた。曲亭馬琴作の読本《青砥藤綱模稜案(もりようあん)》(1811-12刊)は,藤綱の名を借り,和漢の公事訴訟譚を基礎に推理小説風の展開で作品化,これには大岡裁きに共通する説話をも含む。歌舞伎では1852年(嘉永5)7月江戸市村座初演《名誉仁政録》(3世桜田治助作)や,前記《模稜案》の脚色作である1846年(弘化3)7月市村座初演《青砥稿(ぞうし)》(3世桜田治助作),また62年(文久2)3月市村座初演《青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)》(河竹黙阿弥作)などに登場,ある場合には大岡越前守の名をはばかって藤綱とすることもあったが,いずれにせよ事件の善悪理非を判断する〈さばき役〉として大団円に登場,また浄瑠璃《摂州合邦辻(せつしゆうがつポうがつじ)》(1773初演)の合邦が藤綱の子として描かれるなど,藤綱は庶民の守護神的性格を具備した為政者として理想化された。
執筆者:小池 章太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生没年不詳。鎌倉中期の武士。藤満の子。妾腹(しょうふく)の子で所領もなく、11歳で出家、儒仏兼学の師につき、学問に励み、10年後に還俗(げんぞく)して三郎藤綱と名のる。左衛門尉(さえもんのじょう)。執権北条時頼(ときより)の時代に評定衆(ひょうじょうしゅう)として活躍したことが『弘長記(こうちょうき)』に記されているが、『吾妻鏡(あづまかがみ)』『関東評定衆伝』には藤綱の名はみえない。数十か所の所領を知行し富んでいたが、自らは質素に暮らし、貧者に施したという。訴訟に際しても権力に屈せず公正な裁判を行った。夜中、鎌倉の滑川(なめりかわ)に落とした銭10文を、50文の松明(たいまつ)を買って探させた話(『太平記』)は有名である。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の歌舞伎(かぶき)狂言『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称『弁天小僧』)にも登場している。
[田辺久子]
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(新田一郎)
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