青砥藤綱(読み)あおとふじつな

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

青砥藤綱
あおとふじつな

鎌倉時代中期の武将。左衛門尉。『太平記』などに,執権北条時頼に仕え,引付衆となり,時頼に諸国視察をすすめ,得宗 (とくそう) 領をめぐる公文と執権との訴訟に公正な裁決をなし,また鎌倉の滑川 (なめりがわ) に落した 10文を 50文かけて捜させたなどの逸話がみえるが,その実在は疑問である。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

青砥藤綱 あおと-ふじつな

?-? 鎌倉時代の武士。
出家したが還俗(げんぞく)して三郎藤綱と名のり,北条時頼(ときより)につかえ,評定衆に列したという。執権時頼の権威をおそれず公平な裁断をした話,川におとした銭10文を松明(たいまつ)代50文をかけてさがさせた話などが「弘長(こうちょう)記」「太平記」につたえられているが,正史にはなく,実在した人かどうかはっきりしない。

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朝日日本歴史人物事典の解説

青砥藤綱

生年:生没年不詳
鎌倉中期の武士。北条時頼に仕えて幕府評定衆を務めた質素廉直な名裁判官として『太平記』などに多くの逸話が遺る。しかし評定衆を務めた徴証はなく,実在を証する史料にも欠け,逸話は後世仮託とみられる。

(新田一郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

あおとふじつな【青砥藤綱】

鎌倉中期の武士。生没年不詳。青砥氏は伊豆国住人大場十郎近郷が承久の乱の功による恩賞として賜った上総国青砥荘を本貫とする。藤綱は28歳のとき北条時頼に仕え,以後評定衆,評定頭人として活躍し,数十ヵ所の所領を知行した。その質素廉直な評定衆としての政治姿勢について数々の逸話を残すが(《弘長記》《太平記》),《吾妻鏡》等の幕府関係の記録にまったくあらわれず,その実在についてはなお疑問が存する。【小田 雄三】
[伝承と作品化]
 藤綱は名裁判官として文学や演劇に登場し,さまざまな逸話が伝えられている。

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大辞林 第三版の解説

あおとふじつな【青砥藤綱】

鎌倉時代の武士。執権北条時頼の下で評定衆として活躍したとされる伝説的人物。廉直で公平な裁決を下したことで「太平記」などに逸話を残し、歌舞伎や浄瑠璃において庶民の理想とする為政者として描かれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

青砥藤綱
あおとふじつな

生没年不詳。鎌倉中期の武士。藤満の子。妾腹(しょうふく)の子で所領もなく、11歳で出家、儒仏兼学の師につき、学問に励み、10年後に還俗(げんぞく)して三郎藤綱と名のる。左衛門尉(さえもんのじょう)。執権北条時頼(ときより)の時代に評定衆(ひょうじょうしゅう)として活躍したことが『弘長記(こうちょうき)』に記されているが、『吾妻鏡(あづまかがみ)』『関東評定衆伝』には藤綱の名はみえない。数十か所の所領を知行し富んでいたが、自らは質素に暮らし、貧者に施したという。訴訟に際しても権力に屈せず公正な裁判を行った。夜中、鎌倉の滑川(なめりかわ)に落とした銭10文を、50文の松明(たいまつ)を買って探させた話(『太平記』)は有名である。河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)作の歌舞伎(かぶき)狂言『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』(通称『弁天小僧』)にも登場している。[田辺久子]

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