韓林児(読み)かんりんじ(英語表記)Han Lin-er; Han Lin-êrh

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

韓林児
かんりんじ
Han Lin-er; Han Lin-êrh

[生]?
[没]至正26(1366)
中国,元末の紅巾軍の首領。欒城 (らんじょう。河北省) の人。白蓮会 (→白蓮教 ) を組織した韓某の孫である父の韓山童と紅巾の起兵をはかり,発覚して母の楊氏とともに山中に逃れた。至正 11 (1351) 年白蓮教徒の劉福通は潁州 (安徽省阜陽県) で挙兵し,その数は十余万に達し,勢い盛んであった。同 15年林児は劉福通により亳 (はく) 州に迎えられて皇帝 (小明王) と称し,国号を宋,年号を竜鳳とした。まもなく元軍に攻撃されて安豊に逃れ,同 18年 汴梁を陥れてここに都を定めた。しかし元軍の攻撃は激しく,劉福通が殺されると朱元璋 (→洪武帝 ) に保護を求めたが,同 26年応天 (南京) へ向う途中,揚子江で溺死させられた。

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世界大百科事典 第2版の解説

かんりんじ【韓林児 Hán Lín ér】

?‐1366
中国,元末群雄の一人。欒城(らんじよう)(河北省)の人。宋徽宗8世の孫と称し紅巾を号として起兵を図った父山童が捕らえられると,武安山中に身を隠したが,1355年(至正15)劉福通らにより亳州(はくしゆう)で推戴され国号を宋,年号を竜鳳とし小明王と名のった。一時は北宋の都開封(汴梁(べんりよう))を奪い都とした。しかし実権は劉福通に握られ各地に派遣した軍を統制することができず,元および群雄の一人張士誠に攻められ滁州で朱元璋(明,洪武帝)の庇護下にはいった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

韓林児
かんりんじ
(?―1366)

中国、元(げん)末群雄の一人。紅巾(こうきん)軍の首領。欒城(らんじょう)(河北省)の人。彼の父韓山童(かんさんどう)は早くから白蓮(びゃくれん)教会を組織し、華北で広く信徒を得ていた。彼は信徒の劉福通(りゅうふくつう)らと謀り「宋(そう)の徽宗(きそう)八世の孫」と称し、元末の混乱に乗じて反元の反乱を企て、紅巾と号した。しかし計画は発覚して山童は捕らえられたが、劉福通らは1351年潁(えい)州(安徽(あんき)省)を根拠地として反乱を起こした。のち彼らは、難を逃れた山童の遺児韓林児を亳(はく)州(安徽省)に迎え、彼を「小明王(しょうみょうおう)」と称し、国号を宋、年号を竜鳳(りゅうほう)と定め、全国の紅巾軍の首領とした。58年、開封(河南省)を占領するとここを都とし、韓林児は諸軍を東路、中路、西路の3方面に分かち、元に対して北伐に向かわせた。しかし彼は部下の将士の統制を保つことができず、元軍の反撃を受けてその勢力は急速に衰えた。のち朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)の保護を受けるに至ったが、朱元璋は彼の存在が天下統一の障害になると考え、彼を揚子江(ようすこう)に溺死(できし)させたという。[谷口規矩雄]

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精選版 日本国語大辞典の解説

かん‐りんじ【韓林児】

中国、元代の群雄の一人。欒城の人。父、韓山童の死後、反徒の首謀者劉福通に迎えられて、宋の皇帝小明王と号し、都を亳(はく)州に定めた。福通の死後、朱元璋に助けられた。一三六六年没。

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世界大百科事典内の韓林児の言及

【紅巾の乱】より

…河北省に本拠をおく白蓮教会の会首韓山童は弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し,河南,安徽地方で反元の反乱を企てたが失敗した。あとを遺児の韓林児が継ぎ,長江(揚子江)流域では徐寿輝らが呼応し全国的反乱となった。このなかから朱元璋が出て反乱軍の群雄を倒し,天下を統一した。…

※「韓林児」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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