中国,元末群雄の一人。欒城(らんじよう)(河北省)の人。宋徽宗8世の孫と称し紅巾を号として起兵を図った父山童が捕らえられると,武安山中に身を隠したが,1355年(至正15)劉福通らにより亳州(はくしゆう)で推戴され国号を宋,年号を竜鳳とし小明王と名のった。一時は北宋の都開封(汴梁(べんりよう))を奪い都とした。しかし実権は劉福通に握られ各地に派遣した軍を統制することができず,元および群雄の一人張士誠に攻められ滁州で朱元璋(明,洪武帝)の庇護下にはいった。応天府(南京)への移動中揚子江で溺死したが,一説には王朝樹立をもくろむ朱元璋に殺されたともいう。韓林児を中心とする勢力を徐寿輝に代表される西系紅巾軍に対し,東系紅巾軍と呼ぶ。
→紅巾の乱
執筆者:阪倉 篤秀
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、元(げん)末群雄の一人。紅巾(こうきん)軍の首領。欒城(らんじょう)(河北省)の人。彼の父韓山童(かんさんどう)は早くから白蓮(びゃくれん)教会を組織し、華北で広く信徒を得ていた。彼は信徒の劉福通(りゅうふくつう)らと謀り「宋(そう)の徽宗(きそう)八世の孫」と称し、元末の混乱に乗じて反元の反乱を企て、紅巾と号した。しかし計画は発覚して山童は捕らえられたが、劉福通らは1351年潁(えい)州(安徽(あんき)省)を根拠地として反乱を起こした。のち彼らは、難を逃れた山童の遺児韓林児を亳(はく)州(安徽省)に迎え、彼を「小明王(しょうみょうおう)」と称し、国号を宋、年号を竜鳳(りゅうほう)と定め、全国の紅巾軍の首領とした。58年、開封(河南省)を占領するとここを都とし、韓林児は諸軍を東路、中路、西路の3方面に分かち、元に対して北伐に向かわせた。しかし彼は部下の将士の統制を保つことができず、元軍の反撃を受けてその勢力は急速に衰えた。のち朱元璋(しゅげんしょう)(明(みん)の太祖)の保護を受けるに至ったが、朱元璋は彼の存在が天下統一の障害になると考え、彼を揚子江(ようすこう)に溺死(できし)させたという。
[谷口規矩雄]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…河北省に本拠をおく白蓮教会の会首韓山童は弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し,河南,安徽地方で反元の反乱を企てたが失敗した。あとを遺児の韓林児が継ぎ,長江(揚子江)流域では徐寿輝らが呼応し全国的反乱となった。このなかから朱元璋が出て反乱軍の群雄を倒し,天下を統一した。…
※「韓林児」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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