ティムール朝の創設者(在位1370-1405)で,中央アジア出身の世界征服者。シャフリ・サブズ近郊のホージャ・イルガルに,トルコ化・イスラム化したモンゴル族(チャガタイ・トルコ族)の一つ,バルラース部の一員として生まれる。盗賊団の首領として過ごした青年時代に,その右手,右足に終世の傷を受け,そのため彼に敵意を抱く者たちは,彼をティムーリ・ラングTīmūr-i lang(ペルシア語で〈びっこのティムール〉)と呼び,これがヨーロッパに伝えられて,タメルランTamerlane,タンブルレンTamburlaineなどの呼称を生んだ。中国史料では帖木児と記される。
1370年,混乱のマー・ワラー・アンナフルの統一に成功してティムール朝を創設し,80年までの10年間に中央アジア全域の支配権を握る。以後,80-84年の4次にわたるイラン遠征,86-88年の対西アジア3年戦争,92-96年の対西アジア・南ロシア5年戦争,98-99年のインド遠征,1399-1404年の対西アジア7年戦争(実際には足かけ6年の遠征)など絶えまのない征服戦争を敢行した。東は中国の辺境から西はアナトリアまで,北は南ロシアの草原地帯から南はインド北部に至る広大な地域を支配下に置き,中央アジア史上空前絶後の大帝国を建設したが,1405年,中国の明朝に対する遠征の途上,シル・ダリヤ河畔のオトラルで病没した。
征服地から連行した職人・芸術家たちを駆使して,首都サマルカンドに壮麗な建造物を建築し,また征服地の当代一流のイスラム学者たちをサマルカンドに強制移住させるなど,この首都をイスラム世界の中心地とするために努力を傾けた。その精神は強固で肉体も強健,勇敢で恐れを知らず,強固な巌のごとくに見えたといわれる。またひとたび口に出した命令は決して取り消すことのない恐るべき支配者であると同時に,勇敢な兵士らを愛する公正無比な指導者でもあったという。その軍事的成功は,チャガタイ・トルコ族を中核とする中央アジア遊牧民の軍事力と,ティムールによって充実した中央アジア・オアシス定住民の経済力が,ティムールを核として,みごとに結合された結果であったとみることができよう。
執筆者:間野 英二
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1336~1405(在位1370~1405)
ティムール帝国の創始者。モンゴルのバルラス族出身。西チャガタイ・ウルスの混乱に乗じてマー・ワラー・アンナフルを平定。名目的にチンギス・カンの後裔を戴き,みずからはアミールと称するなどチンギス家の権威を利用してトルコ,モンゴル諸部族を統御し,その軍事力を獲得する一方,イラン系ムスリムを主とする定住民の経済力を基盤に政権を安定させた。モンゴル帝国の復興をめざして四方に遠征を行い,1402年アンカラの戦いでオスマン帝国のバヤジット1世を破るなど,中央アジアから西アジアに領土を拡大したが,明の征服に向かう途中オトラルで病死した。文化的先進地であった西アジア各地から,多くの職人や学者を首都サマルカンドに移住させ,積極的な都市建設を行ってティムール帝国の文化興隆の基礎をつくった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…1402年7月28日,トルコのアンカラ近郊で戦われたティムール軍とオスマン・トルコ軍の会戦。1402年3月,冬営地カラー・バーグを出発したティムールは,オスマン軍との対決を目指して小アジアに進み,エルジンジャン,シワス,カイセリ,クルシェヒルを経てアンカラに到着,北東郊外のチュブク・オワスに陣を張った。…
※「ティムール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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