日本大百科全書(ニッポニカ) 「須恵」の意味・わかりやすい解説
須恵
すえ
熊本県南東部、球磨(くま)郡にあった旧村名(須恵村(むら))。村名は平安末期創設の須恵荘(しょう)による。現在は球磨郡あさぎり町の北端部にあたる地域。2003年(平成15)免田(めんだ)町、上(うえ)村、岡原(おかはる)村、深田村と合併し、あさぎり町となる。須恵の地名はあさぎり町内の旧須恵村区域に残る。旧須恵村地区は、南半は球磨川水系の形成した沖積低地ならびに阿蘇(あそ)溶結凝灰岩の丘陵地(人吉(ひとよし)盆地)、北半は四万十(しまんと)層群の山地(九州山地北部)からなる。南端近くをほぼ東西に球磨川が流下し、その両岸に水田地帯が開けているが、区域の70%余は林野である。産業の中心は農林業にあり、スギの育成に力を注いできた。第二次世界大戦前の日本農村の典型として、この村の名を著書『SUYE MURA』によって世界に広めたシカゴ大学の社会人類学者ジョン・F・エンブリー夫妻の住居跡は、いまも日本を訪れる外国人学者の立ち寄り先の一つになっている。
[山口守人]
『J・F・エンブリー著、植村元覚訳『日本の村――須恵村』(1978・日本経済評論社)』
須恵(町)
すえ
福岡県北西部、糟屋郡(かすやぐん)にある町。1953年(昭和28)町制施行。東部は三郡(さんぐん)山地の山地帯であるが、西部には低い古第三紀層の丘陵が広く分布、中央部を北西流する須恵川沿いに沖積低地が開け、JR香椎(かしい)線が通じる。町名は陶業地を意味する陶(すえ)に由来、福岡藩黒田氏御用の須恵焼窯跡がある。1890年(明治23)南端の新原(しんばる)に海軍炭鉱が開鉱して以来急速に炭鉱町として発達したが、石炭不況の波を受け、1964年(昭和39)までには全廃された。その後企業誘致が進められる一方、福岡市のベッドタウン化も進んだ。篠栗(ささぐり)町との境にある老杉林に覆われた若杉(わかすぎ)山は太宰府(だざいふ)県立公園に含まれ、ハイキング客が多い。面積16.31平方キロメートル、人口2万8628(2020)。
[石黒正紀]
『『須恵町誌』(1983・須恵町)』