中国,北京の北西郊約10kmにある清朝の離宮。明代には好山園といい,清の1750年(乾隆15)以来大規模な改築がなされ,清漪園(せいいえん)と改称された。1860年(咸豊10),英仏連合軍により焼尽。88年(光緒14),西太后が再建して頤和園と改称。1900年,義和団事件で再び破損したが,3年後に修復された。面積約3.4km2で,昆明湖が大半を占め,北側に万寿山がある。山の東に宮殿に相当する仁寿殿,その北に寝殿の楽寿堂があり,山の中央斜面に沿って,仏香閣,排雲殿などの主要な建築群が集中して建つ。湖岸沿いに長さ700mの長廊が東西に伸び,西部には大理石造の石舫(せきほう)(船をかたどった建築)が立ち,湖岸と島を結んで長い十七孔橋がかかる。山の北東には水景庭園の諧諏園が別致を形成する。造景には江南地方の風景を写したところが多い。
執筆者:田中 淡
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中国、北京(ペキン)の北西郊外にある庭園。清(しん)朝の離宮で、中国現存の庭園としては最大規模のものといわれる。その起源は12世紀の金代の行宮(あんぐう)とされ、1497年円静寺がつくられて、南の西湖とあわせて好山園とよばれた。1750年、清の乾隆帝(けんりゅうてい)は寺を改築し、付属の建物や庭園を整備して清漪園(せいいえん)と称した。1860年天津(てんしん)条約の批准を強いるイギリス・フランス連合軍の侵入の際、焼き払われて廃墟(はいきょ)となり、1888年復興、西太后は海軍の予算を流用して庭園を改修、頤和園と改名した。しかし1900年、義和団事件に際し八か国連合軍が侵入し、ふたたび破壊された。現存のものは1903年に復旧したもので、面積約2.9平方キロメートル、周囲8キロメートル。北に万寿山(まんじゅさん/ワンショウシャン)があり、その南斜面より昆明(こんめい)湖岸一帯にかけて仏香閣、長廊、排雲殿などの美しい建物が配置され、西山(せいざん/シーシャン)、玉泉山(ぎょくせんざん/ユイチュワンシャン)を借景とする美しい造園がみられる。この庭園は1998年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。
[船越昭生]
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…この種の苑囿としては,秦始皇帝が咸陽に造営した離宮にすでに人工的な築山をもった造園の例があり,前漢武帝の上林苑や太液池,隋煬帝(ようだい)の西苑,唐の長安にあった曲江,北宋の汴梁(べんりよう)(河南省開封)にあった金明池,元の大都の太液池などが歴史上著名。現存するものとしては,元の大都の太液池をうけついだ明・清時代の北京の西苑(三海)や清朝の北京北西郊に設けられた頤和(いわ)園,円明園などの三山五園,同じく河北省承徳(旧,熱河)の避暑山荘などがあり,いずれも広大な領域を占め,大規模な人工的造園や豪華な建築装飾を特色としている。【田中 淡】。…
…なかでも円明園はもっとも広大壮麗で世界にその名を知られたが,1860年(咸豊10)英仏連合軍のために徹底的な破壊をこうむった。万寿山清漪園も同時に破壊されたが,1888年(光緒14)に至り西太后によって修復され,頤和(いわ)園と称して今日に及んでいる。
【近年の変貌】
1911年,民国革命により清朝に代わって中華民国が成立してからも,北京は国都として存続し,28年南京に遷都するとともに北京は北平と改められた。…
※「頤和園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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