(読み)ヒョウ

デジタル大辞泉 「評」の意味・読み・例文・類語

ひょう【評】[漢字項目]

[音]ヒョウ(ヒャウ)(慣)
学習漢字]5年
物のよしあしをはかる。品定めをする。「評価評議評者評釈評定評伝評判評論合評月評講評酷評書評寸評選評総評批評品評論評
評価。評判。うわさ。「悪評好評世評定評不評風評下馬評
[名のり]ただ

ひょう〔ヒヤウ〕【評】

物事価値可否善悪などを論じること。また、その論じたもの。批評。「映画のを書く」「人物
[類語]批評論評批判評価評論講評評語総評概評短評寸評合評時評時論高評酷評劇評書評選評月旦評コメント

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精選版 日本国語大辞典 「評」の意味・読み・例文・類語

ひょうヒャウ【評】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 善悪・可否・価値などを論じ定めること。しなさだめ。批評。
    1. [初出の実例]「難波朝庭天下立評給時仁」(出典:皇太神宮儀式帳(804))
    2. 「世上之俗諧皆皆ふるび果候処に、かかる新智めづらしく、段段とりわき評に不及」(出典:曲水宛芭蕉書簡‐元祿四年(1691)一一月五日)
    3. [その他の文献]〔韓愈‐五箴・言箴〕
  3. 令制前の地方行政単位。大宝令制の郡にあたる。こおり。
    1. [初出の実例]「辛亥年七月十日記笠評君名大古臣」(出典:金銅観音菩薩造像記(法隆寺旧蔵御物)‐辛亥年(652)七月一〇日)

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普及版 字通 「評」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 12画

(旧字)
12画

[字音] ヒョウ(ヒャウ)・ヘイ
[字訓] はかる・しなさだめ

[字形] 形声
声符は(平)(へい)。(はかり)。持平の意がある。〔広雅、釈詁三〕に「なり」、〔釈詁四〕に「議なり」とあり、公平に評議することをいう。〔玉〕に「言なり」とみえる。

[訓義]
1. はかる、相談する。
2. あげつらう、ただす。
3. しなさだめ。

[古辞書の訓]
名義抄 ハカル・ソシル・カゾフ・コトハル 〔立〕 ワラハ・ハカル・サダメテ・カゾフ・ハカラフ・ソシル・コト

[語系]
(坪)biengは同声。は手斧(ちような)で木を平らかに削る意。八は削りくずの飛ぶ形。はみなの声義を承ける。

[熟語]
評価・評議・評決・評估・評語・評書・評章・評断・評定・評点・評品・評脈・評理・評論・評話
[下接語]
悪評・合評・評・月評・公評・好評・考評・高評・講評・酷評・詩評・時評・書評・寸評・世評・評・銓評・題評・短評・定評・適評・批評・品評・不評・風評・妄評・冷評・論評

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改訂新版 世界大百科事典 「評」の意味・わかりやすい解説

評 (こおり)

古代の朝鮮および日本で行われた行政区画の名称。《梁書》新羅伝には,畿内の邑,すなわち王城付近の村落を啄評(たくひよう),畿外の邑を邑勒と呼び,全国に6啄評,52邑勒があったとあり,また《北史》高句麗伝,《隋書》高麗伝には内評(ないひよう)(畿内の評),外評(がいひよう)(畿外の評)の区別があったと記されており(内評・外評),これらは中国の郡県制に相当するもので,軍営の所在地であったとされている。《日本書紀》には,継体天皇24年9月条に任那の地名として背評(へこほり)の名が見え,またの名を能備己富利(ゆびこほり)ともいったとある。このことから,評が任那ではコホリと呼ばれたことが明らかであるが,コホリが古代朝鮮語に由来するものか,日本の古語であったかについては見解が分かれ,古くは本居宣長が《古事記伝》(1798)の中で朝鮮語説を出し,白鳥庫吉もこの説をとるのに対し,金沢庄三郎はコは大,ホリは村の義で日本の古語であるとする(《日鮮同祖論》1943)。日本に評の制度が導入されたのは,《皇太神宮儀式帳》(804)に〈難波朝廷天下立評〉とある孝徳朝のころで,649年(大化5)とする説が有力である。しかし,ここにいう〈天下立評〉が全国一斉に国造(くにのみやつこ)の国を分割,統合して評制をしいたものか,あるいは国造制はそのままにそれと並行して大和王権の直轄地等にのみ施行したのかについては論争があり,決着を見ていない。評の官職名としては,評造,評督,督領,助督などが知られているが,その官制については必ずしも明らかではなく,評督(長官),助督(次官)の二官制で,評造はその総括名称であったとする説や,二官制は認めた上で,評造は小評の長官名,あるいは国造出身でない評の官人名とする説などがある。評制は,7世紀後半の地方行政制度の整備にともない,国の下の行政単位として全国的に施行され,また評の下には50戸からなる里が置かれ,7世紀末には国評里の地方制度が整った。701年(大宝1)制定の大宝令によって,地方制度は国郡里と改められ,評は郡に変わったとされているが,静岡県伊場遺跡出土の木簡には駅評の名が見え,令制下の駅家(うまや)の前身も評と呼ばれたらしいことが知られる。評はまた郡とは異なって軍事的性格を有していたといわれ,単に国郡制の郡に先行する行政単位というだけでは言い尽くせない性格を有していたようである。
(ぐん)
執筆者:


評 (ひょう)

(こおり)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「評」の意味・わかりやすい解説

評(ひょう)
ひょう

7世紀後半の地方行政区画。「こおり」とも読む。『日本書紀』には、646年(大化2)の改新詔によって郡が地方行政区画として定められたとある。しかし、金石文、系図などの古代史料には、この時期の地方行政区画として評がみえ、このことをめぐっていわゆる郡評論争がおこった。郡評論争は、律令(りつりょう)制の地方行政組織がどのように形成されたかにとどまらず、律令制度の出発点とされてきた「大化改新詔」の信頼性、さらにはこの時期の地方行政区画をすべて郡とする『日本書紀』の史料としての性格の問題をも提起した点で、戦後の日本古代史の論争のなかでももっとも重要なものの一つである。論争では、郡評併用説、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令施行(689)によって評から郡へ移行したとする説、大宝(たいほう)令施行(701)によるとする説が唱えられたが、近年藤原宮址から「己亥年十月上挟阿波」をはじめとする国評里を表記した木簡(もっかん)が多数出土し、己亥年は699年で大宝令施行直前であることから、7世紀後半の地方行政区画は評であって、大宝令施行によって郡に移行したと考えられている。評は朝鮮に起源をもち、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)に例がみられる。朝鮮の評は軍事的性格をもつ行政単位とされている。日本においても同様の性格をもったと考えられ、孝徳(こうとく)期(645~654)以降、国造(くにのみやつこ)をはじめとする在地首長層を立評人として、彼らを評督、助督あるいは評造とすることによって成立した。評の成立の時期については、孝徳期に一括して成立したとする説と、天智(てんじ)期(662~671)、さらに浄御原令施行にかけて段階的に成立したとする説とがある。大宝令における郡への移行は、軍団の別置による軍事的性格の喪失などの地方行政機構としての整備とされているが、用字の転換の背景には朝鮮起源の評にかえて中国の郡を導入しようとする当時の貴族の国際意識があり、『日本書紀』が評を一括して郡に書き改めたのもそうした意識の反映と考えられる。

[大町 健]


評(こおり)
こおり

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百科事典マイペディア 「評」の意味・わかりやすい解説

評【こおり】

古代朝鮮と日本の地方行政区画。朝鮮では国によって内評・外評(ないひょう・がいひょう),啄評(たくひょう)などがあり,軍事的な地域編成単位とされる。日本では649年評制が敷かれたと考えられるが,国造(くにのみやつこ)制との関係,官制など明確でない。評の下には50戸からなる(り)が置かれ,飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令の施行までには国評里制が成立した。701年制定の大宝令により国郡里に改められたとされる。なお,《日本書紀》には一貫して郡と受け取られる表現があり,郡制を記す大化改新の詔の信憑性に関わる論争があった(郡評論争)。また,評の持つ性格がそのまま郡に移行したかどうかは不明の部分がある。→大宝律令養老律令
→関連項目那須国造碑

評【ひょう】

(こおり)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「評」の意味・わかりやすい解説


こおり

7世紀後半の日本の地方行政単位の名称。古代大和国家では,行政単位として国造制がとられていたが,645年に行なわれたとされる大化改新の数年後,旧来の国造が支配していた領域を分割して,新たに評という行政単位を設けた。その役人を評造 (こおりのみやつこ。評督・助督) といい,徴税などの農民支配に当たった。 701 (大宝1) 年に成立した大宝令により,評は郡に,評造は郡司と改められた。評は郡よりも軍事的性格が強かったと考えられる。なお,評から郡への変更時期をめぐって,長く「郡評論争」が行なわれてきたが,相次いで発見された木簡調査の結果,701年以前のものが「評」を使い,それ以後のものが「郡」を使っているところから,一挙に解決を見た。なお,古代朝鮮でも軍営の置かれた地区を示す語として「評」の語が使われていた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「評」の解説


ひょう

「こおり」とも。大化以後,浄御原(きよみはら)令制までの地方組織。大化の改新での地方制度改革により,各地に派遣された地方官の下に設置された。改新の詔では郡(実際は評)に大・中・小の3等級を設定。評は朝鮮半島の地方制度を参考にしたとみられ,長官の地位には国造(くにのみやつこ)などの在地首長を任じた。大宝令の施行によって郡と改称された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「評」の解説


こおり

大化の改新後から大宝令の施行までの地方組織
藤原京跡出土の木簡により,その存在が確認された。大宝令の施行によって郡と改称された。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【評】より

…古代の朝鮮および日本で行われた行政区画の名称。《梁書》新羅伝には,畿内の邑,すなわち王城付近の村落を啄評(たくひよう),畿外の邑を邑勒と呼び,全国に6啄評,52邑勒があったとあり,また《北史》高句麗伝,《隋書》高麗伝には内評(ないひよう)(畿内の評),外評(がいひよう)(畿外の評)の区別があったと記されており(内評・外評),これらは中国の郡県制に相当するもので,軍営の所在地であったとされている。《日本書紀》には,継体天皇24年9月条に任那の地名として背評(へこほり)の名が見え,またの名を能備己富利(ゆびこほり)ともいったとある。…

【内評・外評】より

…朝鮮の6~7世紀の高句麗における行政区画。《隋書》高麗伝に,12等の官名につづき〈また内評と外評には五部の褥薩(じよくさつ)(長官)がいる〉とある。内評は畿内,外評は地方をいい,それぞれ5部に分かれていた(五族・五部)。…

【郡】より

…中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。…

【郡司】より

…狭義には大領・少領のみをいい,この場合は郡領(こおりのみやつこ)といった。郡司制度は,孝徳朝に出現し持統朝には全国的に整備されたと思われる評(こおり)の制度を継承した郡制と同様,評督(長官),助督(次官)あるいは評造と呼ばれた評の官制を基礎に,701年(大宝1)の大宝令によって成立した。〈大化改新之詔〉(《日本書紀》大化2年1月条)第2条には,国司・郡司を置き,郡司は国造の中から選任せよとあるが,この記事の大半は大宝令の条文を用いて作文したもので,とりわけ郡司については文字どおりにはとうてい信頼できないことが明らかにされている。…

※「評」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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