(読み)こおり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


こおり

7世紀後半の日本の地方行政単位の名称。古代大和国家では,行政単位として国造制がとられていたが,645年に行なわれたとされる大化改新の数年後,旧来の国造が支配していた領域を分割して,新たに評という行政単位を設けた。その役人評造 (こおりのみやつこ。評督・助督) といい,徴税などの農民支配に当たった。 701 (大宝1) 年に成立した大宝令により,評はに,評造は郡司と改められた。評は郡よりも事的性格が強かったと考えられる。なお,評から郡への変更時期をめぐって,長く「郡評論争」が行なわれてきたが,相次いで発見された木簡調査の結果,701年以前のものが「評」を使い,それ以後のものが「郡」を使っているところから,一挙に解決を見た。なお,古代朝鮮でも軍営の置かれた地区を示す語として「評」の語が使われていた。

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デジタル大辞泉の解説

ひょう〔ヒヤウ〕【評】

物事の価値や可否・善悪などを論じること。また、その論じたもの。批評。「映画のを書く」「人物

ひょう【評】[漢字項目]

[音]ヒョウ(ヒャウ)(慣)
学習漢字]5年
物のよしあしをはかる。品定めをする。「評価評議評者評釈評定評伝評判評論合評月評講評酷評書評寸評選評総評批評品評論評
評価。評判。うわさ。「悪評好評世評定評不評風評下馬評
[名のり]ただ

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百科事典マイペディアの解説

評【こおり】

古代朝鮮と日本の地方行政区画。朝鮮では国によって内評・外評(ないひょう・がいひょう),啄評(たくひょう)などがあり,軍事的な地域編成単位とされる。日本では649年評制が敷かれたと考えられるが,国造(くにのみやつこ)制との関係,官制など明確でない。評の下には50戸からなる(り)が置かれ,飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令施行までには国評里制が成立した。701年制定の大宝令により国郡里に改められたとされる。なお,《日本書紀》には一貫して郡と受け取られる表現があり,郡制を記す大化改新の信憑性に関わる論争があった(郡評論争)。また,評の持つ性格がそのまま郡に移行したかどうかは不明の部分がある。→大宝律令養老律令
→関連項目那須国造碑

評【ひょう】

(こおり)

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世界大百科事典 第2版の解説

こおり【評】

古代の朝鮮および日本で行われた行政区画の名称。《梁書》新羅伝には,畿内の,すなわち王城付近の村落啄評(たくひよう),畿外の邑を邑勒と呼び,全国に6啄評,52邑勒があったとあり,また《北史》高句麗伝,《隋書》高麗伝には内評(ないひよう)(畿内の評),外評(がいひよう)(畿外の評)の区別があったと記されており(内評・外評),これらは中国の郡県制に相当するもので,軍営の所在地であったとされている。《日本書紀》には,継体天皇24年9月条に任那地名として背評(へこほり)の名が見え,またの名を能備己富利(ゆびこほり)ともいったとある。

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精選版 日本国語大辞典の解説

ひょう ヒャウ【評】

〘名〙
① 善悪・可否・価値などを論じ定めること。しなさだめ。批評。
※皇太神宮儀式帳(804)「難波朝庭天下立評給時仁」
※曲水宛芭蕉書簡‐元祿四年(1691)一一月五日「世上之俗諧皆皆ふるび果候処に、かかる新智めづらしく、段段とりわき評に不及」 〔韓愈‐五箴・言箴〕
② 令制前の地方行政単位。大宝令制の郡にあたる。こおり。
※金銅観音菩薩造像記(法隆寺旧蔵御物)‐辛亥年(652)七月一〇日「辛亥年七月十日記笠評君名大古臣」

ひょう‐・す ヒャウ‥【評】

[1] 〘他サ変〙 ⇒ひょうする(評)
[2] 〘他サ四〙 =ひょうする(評)

ひょう‐・する ヒャウ‥【評】

〘他サ変〙 ひゃう・す 〘他サ変〙 (古くは「ひゃうずる」とも) 善悪などの価値を論じ定める。批評する。しなさだめをする。
※史記抄(1477)八「東莱曰、〈略〉妙に評したぞ」

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旺文社日本史事典 三訂版の解説


こおり

大化の改新後から大宝令の施行までの地方組織
藤原京跡出土の木簡により,その存在が確認された。大宝令の施行によって郡と改称された。

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世界大百科事典内のの言及

【郡】より

…中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。…

【郡司】より

…狭義には大領・少領のみをいい,この場合は郡領(こおりのみやつこ)といった。郡司制度は,孝徳朝に出現し持統朝には全国的に整備されたと思われる評(こおり)の制度を継承した郡制と同様,評督(長官),助督(次官)あるいは評造と呼ばれた評の官制を基礎に,701年(大宝1)の大宝令によって成立した。〈大化改新之詔〉(《日本書紀》大化2年1月条)第2条には,国司・郡司を置き,郡司は国造の中から選任せよとあるが,この記事の大半は大宝令の条文を用いて作文したもので,とりわけ郡司については文字どおりにはとうてい信頼できないことが明らかにされている。…

【評】より

…古代の朝鮮および日本で行われた行政区画の名称。《梁書》新羅伝には,畿内の邑,すなわち王城付近の村落を啄評(たくひよう),畿外の邑を邑勒と呼び,全国に6啄評,52邑勒があったとあり,また《北史》高句麗伝,《隋書》高麗伝には内評(ないひよう)(畿内の評),外評(がいひよう)(畿外の評)の区別があったと記されており(内評・外評),これらは中国の郡県制に相当するもので,軍営の所在地であったとされている。《日本書紀》には,継体天皇24年9月条に任那の地名として背評(へこほり)の名が見え,またの名を能備己富利(ゆびこほり)ともいったとある。…

【内評・外評】より

…朝鮮の6~7世紀の高句麗における行政区画。《隋書》高麗伝に,12等の官名につづき〈また内評と外評には五部の褥薩(じよくさつ)(長官)がいる〉とある。内評は畿内,外評は地方をいい,それぞれ5部に分かれていた(五族・五部)。…

※「評」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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