養賢堂(読み)ヨウケンドウ

デジタル大辞泉 「養賢堂」の意味・読み・例文・類語

ようけん‐どう〔ヤウケンダウ〕【養賢堂】

元文元年(1736)仙台藩創設した藩校

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精選版 日本国語大辞典 「養賢堂」の意味・読み・例文・類語

ようけん‐どうヤウケンダウ【養賢堂】

  1. 仙台藩の藩校。元文元年(一七三六)五代藩主伊達吉村の創設。学科漢学習字・算術・魯学・蘭学歌学・習礼・剣術・槍術・兵学多数にわたり、規模内容において当時の藩校の代表的なもの。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「養賢堂」の意味・わかりやすい解説

養賢堂
ようけんどう

仙台藩の藩学。1736年(元文1)城下三番町に学問所を創設、明倫館養賢堂と称した。宝暦(ほうれき)年中(1751~64)一番町へ移転、拡張、1759年(宝暦9)「養賢堂」と改め、藩主伊達重村(だてしげむら)親書の額が掲げられた。1777年(安永6)聖像を安置し盛況を呈す。1808年(文化5)学舎改築の建白を機に、大槻清準(おおつききよのり)ら立案の周代明堂の古制にのっとる大規模な計画が採用され、17年講堂が竣工(しゅんこう)、さらに先聖殿、学寮、学監居宅を建設、剣槍(そう)術教場、柔術教場、蔵版・印刷所、書籍板木(はんぎ)蔵、調練所などを整え威容を誇った(1945年戦災により焼失)。学田1万2000石を付して経営。藩士に儒学中心に文武両道を授けた。また嘉永(かえい)・安政(あんせい)期(1848~60)に日講所を設け、農商に俗語による講釈を行った。

[木槻哲夫]

『文部省編・刊『日本教育史資料1 巻3 東山道』『日本教育史資料1 巻3 附図』(1889)』『八幡堂太郎「仙台藩と養賢堂」(宇野哲人編『藩学史談』所収・1943・文松堂書店)』『城戸久著『藩学建築』(1945・養徳社)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「養賢堂」の解説

養賢堂
ようけんどう

陸奥国仙台藩の藩校。1736年(元文元)設置の学問所が明倫館養賢堂と称されて子弟教育の場だったが,60年(宝暦10)北1番丁勾当(こうとう)台通東南角に移転して拡張され,72年(安永元)に養賢堂と命名。学田は1万2000石,大講堂以下諸施設が整備された。学科は1811年(文化8)時で漢学・算法・習字・礼法・兵法・剣槍術などがおかれ,19年(文政2)に聖廟設置,ほかに庶民のための日講所や蘭学局などが時勢に応じて加えられた。幕末には英学も加え,医学校を東2番丁に併設。

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百科事典マイペディア 「養賢堂」の意味・わかりやすい解説

養賢堂【ようけんどう】

陸奥(むつ)仙台藩の藩校。1736年藩主伊達吉村(よしむら)が学問所を設立,明倫館養賢堂と称したのが起源。1772年養賢堂と命名。19世紀に入ると大槻平泉らが現れて隆盛となり,後には,漢学のほか歌学,洋学,算術等も教えた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「養賢堂」の解説

養賢堂
ようけんどう

江戸時代,仙台藩の藩校
1736年,藩主伊達吉村が創設。'72年養賢堂と命名した。代表的藩校の一つ。

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