高山城跡(読み)たかやまじようあと

日本歴史地名大系 「高山城跡」の解説

高山城跡
たかやまじようあと

[現在地名]高山市城山・神明町・春日町・堀端町・馬場町

江戸時代の高山町南端にあたる通称しろ(六八六・六メートル、別名天神山・多賀山)に築かれた梯郭式平山城。金森氏六代(高山藩)居城であったが、元禄五年(一六九二)六代頼が出羽国上山かみのやま(現山形県上山市)に転封、それに伴って飛騨が幕府領となり、同八年城は破却された。県指定史跡天然記念物。

天正一四年(一五八六)豊臣秀吉から飛騨三万八千七〇〇石を与えられた金森長近ははじめ鍋山なべやま城に居住したが、同一六年頃より天神山てんじんやま城跡を本丸として築城に着手した。当地には永正年間(一五〇四―二一)に飛騨守護代多賀氏の一族高山外記が構築した天神山城があったと伝える(飛州志)天神山城あるいは多賀たが山の名称は、外記が築城に際して近江の多賀天神を城中に勧請して祀ったことに由来するという。金森氏は高山城の築城にあたって、三木氏の本拠であった松倉まつくら城を取壊し、「松倉断絶の歩人足、今日も今日もに夜ぶかから、畚持ち石担ひ夏冬通しに憂き事にあひて」(願生寺由来記)と伝えるように、国中から多くの夫役が徴発され、日夜はげしい労役に従事したといわれる。また天神山は南の尾先が長く片野の山王かたののさんのう山に続いていたため、堀切を行って一山を独立させ、生じた砂礫で北麓をならして市街地とした。「西方ニ国府ノ市肆列リ、宮川其前ニアリ、北ハ平陸ニ続キテ、東ハ後地深泥也、南ニ堀切リアリ、四方ノ山峰遠ク見切ツテ対スルモノナシ、地堅尤相応ノ勝地」(飛州志)、という景観を示していた。

築城開始から一六年の歳月をかけて完成し、その構えは国中に五つとはないまれにみる城郭であったと伝える(飛騨国中案内)

〔規模と設備〕

城は約一二町二反余の地域に本丸(東西四四間半・南北二八間)、二の丸(東西九七間・南北八四間)、三の丸(東西一二〇間・南北九三間)があった。本丸の高さは三之町ふだの辻より五六間一尺三寸、五―六間の石垣が築かれ、西側に三層の天守閣一基があった。また本丸屋形(玄関門・広間・使者の間・台所・風呂屋・空地・柵堀)、矢倉(一〇間矢倉・一三間矢倉・太鼓矢倉・横矢倉)、搦手門(番所あり)、大手三之門、水之手門がある。本丸東北方の搦手門より搦手一之木戸に下る地域は本丸付属地で、東に一三間、西に一〇間の堀を設け、出丸(東西四五間・南北二四間)大手門、岡崎蔵・城用水、門矢倉二基があった。なお、本丸と二の丸の間の小平地に中段矢倉一基があった。


高山城跡
こうやまじようあと

[現在地名]高山町新富

北流する高山川に東から本城ほんじよう川が合流する地点の北側にあり、標高八二メートルを最高地点とする、東から西に延びるシラス台地の先端を主とする城跡。ほん城・肝付きもつき城・山之やまの城ともいう。「三国名勝図会」は肝付兼俊を最初の城主とし、「薩隅日三州他家古城主来由記」は肝付兼俊の子兼経を最初の城主とする。彼らは一一世紀に当地へ定着したと思われるが、当城を初めて築いたかどうかは確認できない。肝付氏は鎌倉期に堀内四一町を領するようになり(元亨三年四月一七日「大隅国守護代盛秀・敦胤連署渡状案」肝付文書)、鎌倉時代末期には日向国の新納にいろ(現宮崎県児湯郡)救仁くに(現大崎町)で濫妨を働いた輩として肝付兼重の名があげられている(元弘三年八月四日「後醍醐天皇綸旨」島津家文書)。この当時肝付氏の本拠は当地であったと推定されるが、日向国南部での行動が目立った。その後、肝付氏は南朝方となり建武年間(一三三四―三八)以降も城郭を構えて北朝方と戦ったが、その合戦の地の大部分は日向国南部で、大隅国では平房の加瀬田ひらぼうのかせだ(現輝北町)での合戦のみであり、同城で敗れると日向に逃れ(建武三年六月一八日「禰寝清種軍忠状」旧記雑録、同四年一月一〇日「建部清種軍忠状」池端文書)、延元四年(一三三九)三俣高みまたたか(現宮崎県高城町)で敗北した際も野尻のじり(現同県野尻町)を使用した(暦応二年九月二日「日下部盛連軍忠状」郡司文書)。興国元年(一三四〇)肝付氏は鹿児島の島津氏を攻めており(暦応四年閏四月日「禰寝清種軍忠状」禰寝文書)、南北朝初期までには肝付氏本拠として当城が築かれていたと考えられる。観応二年(一三五一)八月三日、畠山直顕方の禰寝清成らの軍勢により「高山城」が攻略され(同年八月日「禰寝清成軍忠状」同文書)、同月七日には直顕からこれら大隅国の城郭を攻略したことに対する感状(同文書)が出された。


高山城跡
こうやまじようあと

[現在地名]加茂町山下

別名矢筈山やはずやま城ともいう。山下さんげ知和ちわにまたがる標高七五六・四メートルの矢筈山にある。たかやま城ともよぶ。「東作誌」には「古城 高山かうやま 一名矢筈山(中略)天文年中築之、天正十四丙戌年退城、在世ノ星霜四十余年」とある。後世、矢筈城・草刈くさかり城というが、美作国から因幡国に通じる要衝にあたるため、加茂川下流の医王山いおうやま(現津山市)とともに戦略上重要な位置を占めた。矢筈山城ともいわれるゆえんは、山頂の大絶壁が矢筈の形状をしているからである。矢筈山の山頂に本丸を置き、西に延びる尾根に向かって二の丸・三の丸を配し、北西に土蔵郭と馬場がある。三の丸を下ると草刈氏の菩提所の成興じようこう寺があったため、この郭を成興寺丸という。同寺は城主退城後小中原こなかばら村に移った。


高山城跡
たかやまじようあと

[現在地名]本郷町本郷・船木、三原市高坂町真良

沼田ぬた川東岸、標高約一九〇メートルの山頂にあり、対岸の新高山にいたかやま城跡とともに沼田小早川氏の居城であった。国指定史跡。山頂は三原市に属し、山頂付近の北西から南東方向に延びる谷を中にして二区画に分れ、広さ約一六ヘクタール。沼田古高山城図写(県立三原高校蔵)によると、北の峰に西から北の丸・二の丸・本丸、南の峰には西から出丸・権現丸・イワヲ丸・南丸・出丸などがあり、船木側から谷沿いに上がる道が大手道とされ、真良しんら側へ谷に沿って搦手道が通じていた。


高山城跡
たかやまじようあと

[現在地名]生駒市高山町

富雄とみお川上流、傍示ほうじ越で大阪府交野かたの市へ抜ける街道の西にあり、小字しろ茶屋ちややという。興福寺一乗院方衆徒鷹(高)山氏の拠城と考えられる。

「大乗院雑事記」文明一二年(一四八〇)六月一〇日条に鷹山奥頼栄の名がみえ、越智方に属した。同書明応七年(一四九八)八月六日条に「古市ハ高山城ニ在之、合戦、秋篠・宝来衆ト也、所々焼之」とみえるが、天文一三年(一五四四)七月二九日には鷹山守殿助が河内勢三〇〇余を率い、筒井氏にくみして小柳生こやぎゆう城を攻め(多聞院日記)、筒井・松永両氏の抗争では松永方についている(和州諸将軍伝)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「高山城跡」の解説

こうやまじょうあと【高山城跡】


鹿児島県肝属(きもつき)郡肝付(きもつき)町新富本城にある城跡。別名、肝付城。東は国見連山に連なるシラス台地の急崖、南は本城川、北は栗山川に挟まれた小高い丘陵上にあり、城は西南に向き、西側の低地は高山川に沿っている。伴兼貞の子孫、兼俊が肝付に移り住んで肝付氏を名のり、12世紀から約400年間、大隅(おおすみ)国の領主としてこの城を居城とした。築城時期は不明であるが、島津氏が1506年(永正3)に攻略したが攻め切れなかったという記録がある。戦国時代末期の肝付兼続(かねつぐ)のころには、日向(ひゅうが)の飫肥(おび)城も制圧し、大隅半島をほぼ支配していたが、1573年(天正1)に島津氏に敗れ、1580年(天正8)に阿多(南さつま市)に移封され、廃城となった。山上の標高82m地点にある本丸を中心に二の丸、三の丸、奥曲輪(くるわ)などが空堀で区画され、枡形、土塁、切り通し、大手門などの跡が残る。1945年(昭和20)、国指定史跡になった。JR日南線志布志駅から車で約1時間。

たかやまじょうあと【高山城跡】


小早川氏城跡(こばやかわししろあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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